十九歳のころ、新聞配達のアルバイトをしていた。
集金や営業活動等はしておらず、朝刊と夕刊の配達のみ。記憶が曖昧で、その時点でクルマの免許をとっていたか否か覚えていないのだが、理由はともかく私は自転車による配達を行っていた。
とある初冬の早朝のことだった。
重たい大量の新聞を載せ、バランスを取るのも一苦労の自転車をヨイショヨイショと漕いでいると、遥か前方、朝もやの中から人影が浮かんでくるのが見えた。
こちらへ向かって走ってきている。上下黒のジャージ。早朝のランニングマンのようだった。
時刻は五時過ぎといったところ。スポーツとは無縁な日々を送っていた私には何とも解せない行為。こんな早朝よりご苦労なことだなと思いながら、いよいよその人物とすれ違おうとしたそのとき、相手が知った顔であったことに気が付いた。
「トモ?」
私が声をかけると、彼はとても驚き、その足を止めた。
「え、ええ!?」
トモは、幼稚園から中学までずっと同じ学び舎で過ごした間柄だ。クラスは同じになったり別れたりと様々で、プライベートの親交も、つるんだり離れたりといったところ。
進学した高校が別ということで、完全に縁が切れてしまっていた男だった。
天性のずば抜けた身体能力を誇る同級生が一目置かれる存在であるというのは、よくある話だと思う。
トモはまさに、私の世界におけるそういう人物だった。
小学生時代からその身体能力は他を圧倒しており、何をやらせても二位以下に大差をつけて一番になっていた。
中学へ進学すると、他の小学校のメンツも合流する。私の通った中学は、地域の三つの小学校がガッチャンコする仕組みだった。
小学校一校で天下をとっても、その他二校からどんな男が現れるか分かったものではない。恐らくどこにでもこのような人物はいるであろうことから、トモの身体能力が中学でも通用するか否か、私はポジティブ・ネガティブ両方が入り混じった複雑な気持ちでトモを見守っていた。
結果、トモは中学においても他を圧倒した。
走らせても、跳ばせても、投げさせても、握らせても、群を抜く。
腹筋自慢で、仲間に腹を殴らせて耐えてみせる遊びは男子なら誰しも通る道だと思うが、トモはそんな場面でもその実力を発揮、仲間の拳を次々と破壊していった。
中学卒業時点までの脳内データだが、身長は180センチ程度。しなやかな筋肉の鎧をまとった、バスケと格闘技が好きな男だった。
そしてトモはいい奴だった。
力を誇示するために偉ぶったり、暴力を振るったり、人をいじめたり。そんなことは決してしない。いつもニコニコ、むしろ”気は優しくて力持ち”系のいじられキャラの要素を備えていた。
私はそんなトモが好きだった。
しかし一方、トモには残念なところがあった。トモは、相手を、切なくさせるのである。
小学生時代のとある日、トモの家に遊びに行ったときのこと。
暑いな、とランニングシャツをパタパタさせながら、トモが冷蔵庫を開けて言った。
「おい、ヤクルト飲むか?」
ありがとう、ちょうだい、と手を伸ばした私に手渡されたのは、ローリーエースだった。
私の家は中流家庭で、ヤクルトといえばヤクルトだった。私はヤクルトを飲んで育った。だがトモが屈託のない笑顔で断じた「ヤクルト」は、ローリーエースだった。
その時、まだ陰毛も生えていない幼い私の胸が、ギュウっと苦しくなったのを覚えている。
またとある、別の日のこと。トモの家に遊びに行ったとき、トモの母が我々にこう言い放った。
「暑いから、クリーム買うてきて」
クリーム……。暑いから、クリーム……。口を半開きにさせた私のそばで、トモはわかった、と快諾した。学力で私に劣るトモが、私より先に問を理解した瞬間だった。
駄菓子屋へ向かう道すがら母子の会話の内容を問いただし、アイスクリームを買ってこいという意味であることを知らされた。
世の中にはアイスクリームとアイスキャンディーがあり、私は総じてアイスと略して呼んでいた。いざ買う段になり、アイスクリームなのかアイスキャンディーなのか、という問題には、具体的な商品名で以て会話を成立させていた。
家庭内においても、ご近所さんや友人においても、すべてこのようにしてコミュニケーションを成立させてきた。
ここへきて、アイスクリームの「クリーム」部分をチョイスして略す家庭に出くわしたわけだ。
私はこのときにも胸が苦しくなったことを覚えている。
──私は新聞配達の自転車にまたがり、トモはジャージを身にまとう。そんな姿で我々は三年ぶりに再会した。歓喜の声は早朝の静寂を打ち破った。
トモはランニングコースを決めているわけではないらしく、私の残りの配達に走ってついてきた。
さほどスピードを出してないとはいえ、自転車であちこち回るそのそばに、トモは見事に併走してみせた。その表情には余裕さえ感じられ、さすがの身体能力健在といったところだ。
我々は思い出話や、疎遠になっていたこの三年間のことなどをポツポツ話しながら短い時を過ごした。
最後の一部を配り終える。トモとそのままバイバイというのも寂しかったので、営業所へ戻る前に少しその辺で休憩することにした。近くの青空駐車場の前に自転車を止め、自販機で缶コーヒーを買う。
トモも、ああ疲れたと言い、常にステップを踏んでいたその脚を止めた。
私が缶コーヒーのプルタブを開け、キュっと口をつけると、トモはおもむろにジャージのポケットから小箱を取り出した。私は目を見張った。
それって──
「トモ、タバコ?」
「おう」
トモはウンコ座りすると、タバコを口に咥え、そして百円ライターで火をつけた。
フゥウウウウウ、と大きな息とともに吐きだされる、もくもくとした煙。
私は十五のころから仲間とはじめたクチなので、タバコを吸う行為自体にどうこう言うつもりは微塵もなかった。解せなかったのは、この早朝ランニングの後の一服、という行為についである。
「トモ、それいつから」
「あん? 結構前からやで」
「……でもジョギングしてるやん。意味あんの」
私が非難すると、トモは顔をクシャっとさせて笑った。
「毎日一箱。つまり二十本吸うてる。カラダに悪いな思ってジョギングはじめてん。こうやって心肺鍛えることで、タバコの毒が軽減されるやろ?」
どういう理論なのか、私は掴めないでいた。
トモは自信満々に続けた。
「だから今も毎日二十本吸うてるけど、おかげで実質、十本やな」
トモはまた私の胸を締めつけた。
三年ぶりの再会は、ほろ苦かった。
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