コロコロvs抜け毛

「自分自身との終わりなき闘い」

【ホラー小説】袋小路(最終)

 

 

 

拙くて恥ずかしい限りですが、むかし初めて書いたホラー小説を公開致します 


 【ホラー小説】袋小路(最終)

 

「木村、さん」
 呼びかける堤を見ることもなく、木村の視線は草間に向けられていた。
「草間さん、もうやめて」
 草間は信じられないものを見るような目を木村に向けた。その顔が、みるみる強張っていく。木村は続けた。
「その手を、離して」
 陸を羽交い絞めにする、その手だ。
「お願い」
 木村の懇願。草間は、両手を解いた。前のめりによろめいた陸を、堤は正面から抱きとめた。そのまま黙って木村を見つめる。どういうことなんだと目で問いかける。
 堤の気持ちを察したように、木村は小さく一度頷いた。そして再び草間に目を向ける。
「もうすぐ、警察が来ると思います」
──え」声に出した草間の口が、そのまま、え、の形で固まった。
「終わりにしましょう」
 木村の声は、震えていた。
 警察、どういうことだ。堤は理解できなかった。次の言葉を待った。
 言葉を選んでいるのか、無言で立ち尽くす木村に、老婆がゆっくりとした足取りで近づいた。「いつもどうも、木村さん、ウチの人、腕が良いんですよ」
 木村は老婆に応じなかった。ギュッと目を閉じると、涙が零れ落ちた。
 草間はその場にへたり込むと、一言、ハハっと笑った。
「警察って……」
 堤は陸を抱きかかえたまま、振り絞るように尋ねた。しかし木村は答えない。
 静まり返った院内に、いつもと変わらずヒーリングミュージックが小さく流れている。音楽に似つかわしくない怒号が、どこからか聞こえていた。
 初めて耳にするが、事態を悟っている堤には、はっきりと聞き取ることができた。
 ドラキュラダー。
 ドラキュラダー。
 ドラキュラダー。

 

 制服に身を包んだ二人の警官に、草間は尋問されていた。手前側のベッドに力なく腰かけたまま、おとなしく受け答えしている。
 堤と陸は、奥の部屋で木村に話を聞いていた。
 洋子と陽菜の二人をベッドから降ろし、一つの部屋に集まった。誰も気力がない。木村も、部屋の隅にある小さなパイプ椅子に腰掛け、床に座り込む堤と陸へ事情を説明した。
「あたしが悪いんです」
 木村は何度も頭を下げたが、堤はもう目もくれなかった。洋子の足、ヒルを剥がした跡からの出血が、なかなか治まらないのだ。壁際のラックにタオルを見つけ、数枚使って、患部を抑え続けた。
 幸い、陽菜はまだ何もされていないようだった。陸は陽菜に駆け寄った時、一瞬ためらいがちに堤の顔色を窺った。堤がかまわないぞと頷くと、陸はゆっくりとした瞬きで応じ、遠慮なく陽菜を抱き締めた。
 事の発端は、数ヶ月前に遡ったという。
 木村夫婦は、子宝に恵まれなかった。昔気質な木村の夫は、女としての役目を果たせない妻をひどくなじり、やがて外に女をつくった。
 木村は女の影に気づいていたが、自分が悪いのだと自分を責め、家で一人、夫の帰る日を我慢して待った。ただひたすら待ち続けた。
 やがて木村は心を壊し、それにより身体をも壊してしまった。心療内科へ通院する日々。自然に眠ることができなくなり、処方される睡眠導入剤は、次第に強さを増し、量が増えていった。
 ある日、少しでも復調に繋がればと、草間療術院に足を向けた。指圧や、鍼、灸、オイルマッサージや、アロマを使ったリラクゼーションなど、身体に良いと思うものは何でもやるという草間のポリシーのもと、あらゆる施術やサービスを受けた。そのどれもがとても心地よく、木村は草間療術院に足しげく通うようになった。
 ある時だった。海外では未だ行われているという、山ビルを使って悪い血を吸うという民間療法を試してみないかと草間から提案を受けた。
 少し気味が悪かったが、その民間療法を実践している治療院の、インターネット上のサイトから落としたという写真を見せられて安心感を覚え、一度やってみてもいいと返事した。
 山ビルに噛まれた瞬間、チクっとした痛みがあったが、特にそれ以上の痛みや不快感などはなかった。悪くないのであれば、本格的に提供サービスの一つに取り入れてみたいと思うと草間は言った。木村は否定しなかった。
 後日、木村は草間から特上コースなるものの提案を受けた。数十分の指圧マッサージを受けた後、アロマオイルマッサージ、山ビル療法を同時に行うというものだった。温かいアイマスクの効果も手伝い、極上のサービスを受けている内に、木村はあっという間に眠りに落ちた。
 しかし、自律神経系の乱れのせいか、眠りが不安定な木村は、ものの数分で目を覚ましてしまった。眠っていたのも事実で、目覚めた瞬間、意識がボーっとして、何がなんだかわからなかった。目を覚ましたのに目の前が真っ暗で、アイマスクをしていたのだと気づくのに数秒かかった。
 確か自分は今、草間療術院で施術を受けている最中だったと思い出し、我に返った。その時、何か腰に違和感を感じたので、そっとアイマスクをずらしてみた。
 すると、山ビルはそこにはおらず、その代わりに草間自身が、ヒルに成り代わったかのように、木村の腰の傷口に唇をあてていた。
 草間と目が合った。木村が目を覚まし、アイマスクをずらして行為を見ていることに気づいた草間は、声にならない悲鳴をあげて仰け反った。
 草間は、どう弁明すればよいのかといった風に、口をパクパクさせていた。禿げ上がった頭に、背丈は高くないが、筋肉の上に贅肉のたっぷり乗った力強い体つきをしている、この上なく男らしい容貌の男が、奇妙な性癖を見知られてしまったことで、すっかり狼狽して縮こまってしまっている。
 そんな部屋の隅で、いつもの老婆が、いつもと変わらぬ笑顔を浮かべて座っていた。
 木村は悟った。異常だ。この男──この家庭は、異常なのだ。いや、この家庭も、と言った方が正しいかもしれない。
 そう悟ると、行為を目の当たりにした瞬間の恐怖感や不快感は、すっかり別の感情によって上書きされてしまっていた。
 木村は、草間を受け入れた。草間は異常だ。だが、異常ではあるが、自分を求めてくれていることに違いはない。
 木村は寝そべったまま、その表情を強張らせている草間に、小さく微笑みかけた。
 草間は木村から向けられた笑顔を訝ったが、すぐに自分なりの解釈をし、卑屈でいやらしい笑みを浮かべた。そしてふたたび、滴り続ける血にその汚い唇を吸いつけた。
 湿った、汚らしい音が響く。だが、殺されるわけでもない、犯されているわけでもない。ならば、どうでもいいではないか。木村は、この異常性の中に身を置くことにした。
 ベッドの上から、何気なくカーテンをつけていない窓の外に目を向けると、何メートルも離れていないであろう目と鼻の先に、隣家の窓が隣り合っているのが見えた。隣家の窓側はカーテンが閉められていたが、そのカーテンの隙間から、中年の男と、その母親であろう老婆が、こっそりとこちらの様子を除き見ていることに気づいた。
 草間はそれに気づく様子もなく、無我夢中で血を吸っている。
 木村は思わず吹き出しそうになった。この世界は、異常者ばかりではないか。
 自分の家庭は異常。自分の心身も異常。近所のこのマッサージ屋も異常で、その家族も異常。その異常な様子を隣家から盗み見ている癇癪持ちの親子も、異常だ。
 どうやらこの世は、異常だらけらしい。では異常者同士、何も恥じることはあるまい。
 木村は、隣家の覗きを草間に知らせるでもなく、カーテンの設置を勧めるでもなく、異常者にこの異常性を共有させることにした。
 やがて草間は、自分で果てた。事が済んだ後、窓の向こうを見ると、親子はもういなかった。
 草間に話を聞いた。草間は素直に全てを白状した。
 実は、ヒルを使った民間療法は、かなり前から試してみたかったことらしい。その実験台として、草間は、自分の妻の身体を使ったのだという。
 驚いたことに、いつも付き添うあの老婆、あれが草間の妻だった。
 山ビル療法を初めて試した時、ヒルを剥がした際に妻の身体を流れ落ちた血の筋を見て、草間は異常な興奮を覚えたのだと言った。そこで、自身にそんな強く特殊な性癖があったのだと初めて気づいたのだという。以来、何度も何度も妻の身体を使って性衝動を満たそうとしたのだが、これにはいいかげん、妻が強く難色を示した。しかし草間は衝動を抑えることができず、やがて、妻を暴力で支配するようになった。
 度重なる暴力、それによる心身の支配、ヒルに噛まれ続ける全身に、夫に血を吸われ続ける異常な性愛、治りきらない傷口を掻き毟る夜……。月日が流れるうち、草間の妻は心身ともボロボロに朽ち果て、気がつけば、狂った老婆と化していたという。
 欲に頂なし。草間は、妻の代わりとなる女を求めた。じっと待ち続けた。しかし、住宅街に店を構えていることや、身体の不調を訴え出す年齢層などの問題を考えると、なかなか草間の眼鏡に適う、欲求を満たすような女性客には出会えなかった。
 そこでしばらく山ビル療法を封印していたのだが、木村と出会い、常連客に育ってくれたところで、ついに行為に至ったのだという。
 草間の指圧マッサージの腕は確かで、相当に評判が良い。それをたっぷり提供した後で、温かいアイマスクで視界を閉ざした上、アロマの甘い香りと癒しの音楽、オイルを使った優しいマッサージを施していたら、眠りに誘うことができるはずだと踏んだらしい。プラス、指圧マッサージの施術前に出している温かいハーブティーに、少量の酒と、市販の風邪薬の粉末を溶いて入れてみたのだという。
 そう白状されて、木村は、その稚拙な考えと行動に思わず吹き出してしまった。そして、目の前で恥ずかしそうに小さくなっている男に、助け舟を出した。
「あたし、処方されてる強い眠剤いっぱいあるから、あげようか」
 突然の申し出に草間はハッとした。
「あと。山ビル療法っていうのは公にしない方がいいと思う。あまりにも珍しいし、気持ちが悪いものだから、なかなか受け入れられないと思うの。もし好奇心にかられて受けてみるという人がいたとしても、きっと眠るほどにはリラックスしないと思う。それと」
 微笑を浮かべたままの朽木のような妻に目をやる。
──奥さんにしたみたいに、全身にやるのもいただけないわ。痕が目立って仕方がないもの。だから、お灸という体裁にして、背中と腰くらいにした方がいいんじゃない。そして、確実に眠ったことを確認してから、ヒルを用意すればいいんじゃないかしら」
 被害者からの思いもよらぬ提案に、草間はしばし呆然とし、やがて、とても卑屈な笑みを浮かべて大いに頷いた。そして、今後もこの行為に目をつぶってくれるのなら、今後木村からは料金は一切もらわないと言った。
 金には困っていないので嬉しくも何ともなかったが、草間が提供できることといえばそれ以外に何もないのは明らかだ。木村はそれで応じることにした。
 おかしいのは自分だけではないと、異常の海の中に身を置けるのなら、どうだっていい。そう思えたからだという。
 木村は髪をかきあげた。
「それからなんです。あの大江さんとこから、例の叫び声があがるようになったのは」
 木村と草間が行為に及んだ日に、大江は、家の外で叫ぶようになったのだという。
「血を吸ってるわけだから。ドラキュラだーって言ってるって、あたしにはすぐわかりました」
 木村は力なく笑った。
 堤は二の句が継げないでいた。懇意にしていたご近所さんに、こんな煮え湯を飲まされるとは。
 陸が、腕の中で眠る陽菜の髪を撫でて呟いた。
「じゃあ、あの時も」
 陸が、初めて堤家を訪れた時。ちょうど草間療術院から出てきた陽菜の母とばったり出会い、その流れで堤家に上がらせてもらった。しばらくした後、家の外から男の怒号が聞こえた。近所に癇癪持ちがいるのだと説明され、それ以上でも以下でもないものとして、受け流していた。それが、そうだったのか。
 あの日、陽菜の母は、草間の毒牙にかかっていたのだ。陸は、唇を噛んだ。
「本当に、すみません」
 木村は頭を下げた。
「あたしが、奥さんに、ここ、勧めたりしたから」
 そう謝られ、陸は静かに怒りを覚えた。
「でも、どうしてですか」どうしてこんな良い人たちが、こんな目に遭わなければならないのか。陸は震えた声で問い質した。「どうして」
 木村は小首を傾げた。「どうして?」
陸が問い詰める。「だって、何の恨みも、ないでしょう?」
 木村は、しばらく考え込むように小さく何度も頷くと、洋子を一瞥して言った。
「……ゴボウ」
「え」
 陸が眉間に皺を寄せる。
「スーパーの、ビニール袋から、ゴボウが出てたんです」木村は、伏していた顔を上げると、細めた目で堤を見つめた。「──幸せそうだったから」
 堤は冷たい視線を木村に向け、重い口を開いた。
「壊したくなった?」
 言われると、木村は、ふっと笑った。
 それを肯定と受け取り、堤は続けた。「だったら何で、今、こうした?」
 堤は、部屋の外の警官に目を向けた。陸も釣られてそちらを見た。
 そうだ。この家庭を壊したいのなら、どうして止める必要があるのだ。どうして、突然もうやめようと言い出したのか。
 一同が警官を見ていると、一人がこちらへやってきた。こちらの視線に気づいたからというわけではなさそうだった。「あなた、ちょっといいですか」
 手招きされた木村は小さく頷くと、立ち上がった。そして立ち去り際に振り返ると、陸の腕の中に向かって答えた。
「陽菜ちゃんは、犠牲にできない」
 木村は、警官に促され、小さく丸まった草間の傍へと向かって行った。
 陸はやりきれなかった。隣で自分と同じように、ベッドから降ろした妻を抱く、陽菜の父親の横顔を睨みつける。もっと、もっと色々、強く、あいつらに言ってやれば良いのに。陸は堤に怒りを覚えた。自分の奥さんが、自分の娘が、こんな目に遭ってるっていうのに。どうしてそんなに、落ち着き払って──
 陸はふと、堤の身体が震えていることに気づいた。もう一度、その横顔を見る。その頬を、涙が伝っていた。
 堤は抜け殻のようだった。
「俺の……せいだ」堤は、腕に抱く妻の胸元に顔を埋めた。「ごめんな」
 陸は、堤が妻を抱くその手が、ギュッと強く握り締められるのを見た。
──ごめんな」
 顔を伏せて泣きじゃくる大の男を見て、陸は震えそうになった唇を真一文字にキュッと結んだ。
 隣を見ないように、顔を上げる。気持ちを落ち着けようと大きく深呼吸すると、甘ったるい香りが鼻についてむせ返りそうになった。この香りは、もう一生好きになれないだろう。
 腕の中がもぞもぞと動いた気がした。
 そろそろ陽菜が目を覚ましそうだった。
 何を、どこから、どう話そう──
 陸は、ゆっくり目を閉じた。

 

 ドアを開けると、鐘がカランコロンと鳴った。
 店主の江藤が、来客が誰だかすぐに察し、人懐っこい笑顔を浮かべて頭を下げた。
「あ、どうもどうも。いらっしゃいませ」
「こんにちは」
 引越しの挨拶以来、一度も顔を出していない気まずさから、堤は口を尖らせて会釈した。
 江藤は気にする様子もなく、笑顔のまま窓際のテーブルを指し示した。
「奥さん、いらしてますよ」
「ええ、外から見えたもので」
 そこには洋子が一人で座っていた。堤に気づいて振り返り、笑顔で手を振っている。堤は洋子のテーブルに着くと、Yシャツのボタンを一つ開けた。クールビズの導入でネクタイはしていないが、暑いものは暑い。
 洋子が両手で頬杖をついて言った。
「おかえり」
「珍しいじゃん、どうしたの。そっから見えたからさ」 
 堤は表の方に顎をしゃくった。
 洋子は仰け反ると、手を団扇のようにして首元を扇いだ。
「真っ直ぐ帰ろうと思ってたんだけど、そこで阿部さんに会って。ここのコーヒー、本当に美味しいから飲んでみてって勧められてさ。暑くて喉渇いてたしちょうどいいやって」
「ふーん」
 江藤がお冷を持ってきた。
「いらっしゃいませ。ご注文は」
 テーブルに目を落とすと、洋子の前のグラスは空だった。クラッシュアイスが残る底の方に、ほんの少しの黒が見える。既にアイスコーヒーを飲み干したところらしい。
「えーっと」
「いいよ、待ってるから大丈夫」
 言葉に詰まっている夫の思いを察して、洋子が言った。座っておいて、注文しないわけにはいかないでしょう? と目が言っている。
 堤は苦笑して小さく頷くと、江藤にアイスコーヒーを注文した。
「ごめんな。終わるまで待たせちゃうけど」
「ううん」
 カウンターの奥に引っ込む江藤の背中を見送ると、向かいに座る洋子の顔に向き直った。じっと見つめていると、洋子は、なあに、と首を傾げた。
 洋子の顔。こけていた頬は少しふっくらして、目の下の隈もなくなった。顔色もいい。すっかり良くなったのだと改めて実感し、安心した。
 あの事件の後、草間と木村は警察に連行されていったが、その後の動向は今のところ掴んでいない。
 眠っている間の出来事だ。堤は、洋子と陽菜に全てを話すべきかどうか相当に頭を悩ませたが、騒ぎが騒ぎだ、問題に気づいてやれなかった自戒の意味も込め、全てを話すことにした。
 自宅に戻り、陸も同席させ、事情を説明した。二人はショックを受けていたが、二人とも、堤が覚悟した程には取り乱したりはしなかった。
 睡眠薬を使用した淫行という格好で、準強姦罪が適用されるのかもしれなかったが、木村の告白が真実、且つ洋子の事例にも当てはまるのであれば、恐らく草間は性行為には及ばなかったはずだった。なので、この件がどのように結論付けられるものなのかは、よくわからないでいた。
 いずれにせよ、訴えるかどうかという話が出てくるかもしれないぞと告げたが、洋子は目を細めて首を横に振った。関わりたくない、忘れてしまいたい、という心情なのだと悟った。
 堤は頷いた。それは、全員の、同じ心情でもあった。
 あれから草間療術院は閉店状態。シャッターは下りている。老婆のように朽ち果てた草間の妻は、変わらずあの家の中で暮らしているのだろうか。
 一方、子宝に恵まれない原因を一方的に押し付けられ、罵倒され、捨てられてしまった秋の扇は、あの家から姿を消したようだった。
 このたった八世帯からなるコの字一帯において、二世帯もの夫婦関係が破綻しているのだ。
 ある日、堤は、家族に引越しを提案した。この町を出てやり直そう。そう言った。しかし洋子と陽菜は否定した。別にこの町が悪いわけではないし、引っ越した先にまたどんなリスクや災厄が待っているかもわからないのだから、嫌な思い出の場所からただ逃げ出すためだけの引越しなら、する必要はない、二人はそう答えた。
 陽菜はその後、陸と同じ塾に通うようになった。家からとても近いという利点もある上、陸との仲も深まり、とても充実しているようだった。陸はどうやら成績の良い優等生であるらしく、これから受験を迎えるにあたって、良いタイミングで最高のパートナーを見つけたのかもしれない。
 洋子は、スーパーの仕事を辞めた。そして珍しく、自分の希望を口にした。
「前の職場に戻りたい。いつでも戻ってきてって言ってくれてるみたいだし」
 加藤の言っていた通りだった。スーパーのレジ打ちという仕事が悪いわけではないし、そこに勤めるパートの人々にも罪はない。だが、洋子にはまだそこは合わなかったのだ。
 堤は快諾した。別に、専業主婦だろうが、アルバイトだろうが、どこかの正社員になろうが、何でもいい。洋子が満足するのであれば、幸せなら、どこで何をしてもかまわない。そう思った。
「ごちそうさま」
 二人で頭を下げると、また来てください、と江藤夫妻はニコニコと手を振って見送ってくれた。
「コーヒー、美味かったな」
「ね。何か説明受けてもよくわかんなかったけど、良い豆っぽかったよ。アイスであれだから、ホットだったら香りとか楽しめて、もっと美味しいのかも」
「な。意外や意外。また来よう」
「うんっ」
 家に帰るまでの十数メートル。二人はどちらからともなく手を繋いで帰った。
 塾が休みで夕飯を待ちわびていた陽菜に、帰りが遅いとぶーぶー文句を言われ、洋子は急いで支度を始めた。
 元気な姿で食卓を囲み、会話は弾み、笑顔は絶えない。
 ようやく堤家に、幸せが訪れた。
 堤がそう幸せを噛み締めていた時、家の外で、乾いた破裂音のようなものが聞こえた。
「何だ」
 堤が表の方へ振り返ると、すぐにまた聞こえた。それは破裂音などではなく、男の怒号だった。
「なあ、あれって」
 大江の癇癪。堤が食卓に向き直ると、洋子と陽菜が顔を強張らせていた。
「何で? お母さん」
 陽菜がすがるような目を洋子に向ける。
 洋子は無言で頷くと、早足でリビングの窓際へ向かった。後を追う陽菜。
「おい」
 堤が二人の後に続くと、洋子と陽菜はカーテンの隙間から大江家の様子を窺っていた。
 怒号が続く。
「また、こっち、見てる」
 洋子が窓の外を見たまま呟く。
「何で。だってあそこ、もう閉まってるんでしょ?」
 陽菜が狼狽する。
 そうだ。確かに。だっきゃーだー。あれは草間が行為に及んだ日に口走るはずではなかったか。だが草間はもういない。木村ももういない。洋子と陽菜も、ここにいる。
 だったら、何故だ?
 堤が眉根を寄せると、洋子が震える声で言った。
「違う……。よく聞いて、違う」
 耳を澄ます。
──ホントだ、違う」陽菜が慄く。「あの時と、言葉が、違うよ?」
「ねえっ」
 洋子は取り乱し、堤の胸倉に詰め寄った。
 堤にもわかった。草間療術院で聞いた、ドラキュラダー。あれとは、明らかに違う。だが、何と言っているかわからない。
「何て言ってるの? 今度は何て言ってるのっ」
 陽菜が恐怖でパニックに陥っている。
 わからない。堤は自分の唾を飲み込む音の大きさに驚いた。わからない。
 堤家に、またしても緊張が走る。
「ねえってば!」
 洋子が金切り声をあげた。
 今度は、一体、何が起こるんだ──

 

 

(了)

 

 

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  • 作者: 花城 冬
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 <あらすじ>

 些細な問題から合コンの予定をパアにしてしまった飯野淳司は、仲間から罰ゲームをさせられることになる。

「いまから俺らの前を通る五人目を、ラブホテルに誘うこと」

 渋々応じる淳司の前に現れた五人目は、偶然にも以前電車で席をゆずったことのある不気味な女だった。酒に酔ってそれと気づかぬまま声をかける淳司。肯定する女。ふたりは、流れで関係をもってしまう。
 後日、淳司は自宅のベランダから思いもよらぬものを見た。アパートの表の電話ボックス。淳司の部屋をじっと見上げていたのは、例の女だった。
 女のストーカー化を懸念した淳司は、ふとした思いつきで難を逃れようと企てた。しかし後先を考えないその行為がさらなるトラブルを引き起こし、女を思いもよらぬ狂気へと駆り立てる。

 この女からは、逃れることはできない──絶対に。