拙くて恥ずかしい限りですが、むかし初めて書いたホラー小説を公開致します
【ホラー小説】袋小路(4)
洋子はなかなか寝付けないままに朝を迎えた。寝たり起きたりの繰り返しだった気がした。睡眠が足りないようでは一日の働きに支障をきたしてしまう。少しでもまとまって眠られたのかどうか、誰かに教えてもらいたいくらいだったが、朝っぱらからシャワーの音を響かせている男には、それは期待できそうになかった。
夫と陽菜に持たせる弁当のおかずをひとしきり詰め、最後に卵を茹でている間、洋子は昨夜の出来事を思い返していた。
大江という男。
結果として、何があったわけではなかった。叫んだり、黙って一点を凝視したりの繰り返しで、こちらを見ている気がして陽菜がうろたえた場面もあったが、ほどなくして母親と思しき人物の怒鳴り声が被さり、男は最後の雄叫びをあげ、宅内へ引き返していった。
しかし気がかりなのは、陽菜の言うとおり、大江がこちらを見ていたことだ。大江は、向かいでもなく隣でもなく、斜向かいにあたる堤家を凝視しているように見えた。
大江家の近所付き合いがどんなものなのかはわからない。つまり大江が、隣近所の情報についてどの程度知っているのか皆目見当も付かない。だが少なくとも、この狭いコの字区画内での引越し──人の出入りくらいは把握しているだろう。
知らないわけがない。つまり、新しく越してきた堤家に関心を持っているのだ。洋子にはそう思えた。
あれをただの変わり者と捉えていいのだろうか。
「おい、洋子。バスタオル取ってくれ」
風呂場から堤が叫んだ。
「朝からシャワーだけじゃ寒いわ。そっち出れない」
脱衣所にバスタオルを取りに出るのも億劫らしい旦那に対し、洋子は心の中で毒づいた。だったらもう少し早く帰ってくるなり、酒の量を減らすなり、鼻炎薬を我慢するなり、マスクを持っていくなりすれば良かったのだ。
洋子はきっちりと柔軟剤の利いたバスタオルを取り出した。
「はい。他には?」
どうせ何も用意していないのだろうと踏んだ。
堤はバスタオルを受け取ると、申し訳なさそうに言った。
「ごめん、パンツとか、一式頼むわ」
はいはい。寝室へ向かおうとした時、二階から陽菜が大きなあくびをしながら降りてきた。
「おはよー」
「おはよう。ごはん待っててね」
言うと、洋子は寝室の収納から堤の下着を適当に見繕った。アンダーシャツは全てVネックの白、ボクサーパンツは全て黒と本人のこだわりがあるので用意は容易いが、靴下はどうしたものか。スーツの色に合わせると聞いたことがあるが、一体今日はどのスーツを着るのか。
「お母さーん。お弁当箱のこのスペースって、このゆで卵?」
陽菜が、あとおかず一品分は入りそうなスペースを見て、火にかかっている鍋と関連付けたのだろう。
「え、うん、そうよ」
靴下を手に取りながら上の空で返事したところで、洋子は大切なことを思い出した。卵を何分茹でているのかすっかり忘れてしまっている。
「あっ、大変。何分までだったっけ」慌ててキッチンへ戻る。「えー、どうしよう。ぼーっとしてた。何分だったっけ」
独り言なのか陽菜に話しかけているのか、洋子はぶつぶつ言った。
「そんなのあたし知らないよ」
陽菜は笑って新聞を広げ、テレビ欄に目を落とした。
起きて、用意して、今七時過ぎだから、ちょうどいいよね。洋子がとりあえず火を切ったところで、風呂場から堤の反響する声が響いた。
「おーい洋子、まだ?」
「え、なに、お父さん何してんの」
父が風呂も入らず寝てしまった経緯など知る由もない陽菜は、驚いて顔を上げた。
慌ててキッチンに戻ってきたため、洋子は下着類を持ってくるのを忘れていた。風呂の扉に歩み寄って話しかける。
「そうそう、ねえ、靴下がわからないんだけど。どうするの?」
「何でもいいよ」
「スーツに合わせるんじゃなかったっけ」
「まあ、ね。俺昨日スーツ、何着てたっけ?」
そんなことも覚えていないのか。紺だ。洋子は靴下の色を優先していいのかわからなかったから質問したわけだが、そもそも昨日のスーツを覚えていないというのであればこの問題は破綻している。
洋子はどうでもよくなってきた。
「ねえ、こっちから聞いといて何だけど、とりあえずパンツとシャツは持ってくるから。後は自分で選んで」
そして陽菜に向き直って続ける。
「陽菜ごめん、卵のカラ、自分で剥いてくれない?」
そう言い残して寝室へ向かう途中、はいよー、というくぐもった声と、はーい、という面倒くさそうな声が届いた。
二つの返事を耳にして、洋子はため息をついた。
「いらっしゃいませ」
目の前に載せられたオレンジ色の買い物かごからキャベツを取り出し、バーコードリーダにかざす。かごの奥に豚肉のパックが見えていて、きっとトンカツにするんだろうなという主婦目線での気付きがあったが、それ以上に思うところなどあるはずもなく、洋子は淡々と次のバーコードを探っていった。
毎朝二人を見送った後は、洗い物をして掃除機をかけ、ベランダへ出て洗濯物を干すのがお決まりの流れ。堤のYシャツの襟の皮脂汚れが日に日に気になってきてはいたが、一つ一つの問題に毎日全力投球していてはキリがない。今日もまだ大丈夫だと判断すると、洋子は肩で一つ息を吐き、パートに出るため身支度を整えて家を出た。
自転車で三分ほどの距離にある全国チェーンの大型スーパー。従業員用の通用口から更衣室へ向かうと、先輩のおばさんパートたちが、誰が不倫しただの誰が死んだだのといった今朝の芸能ネタに早速花を咲かせていた。
挨拶をして、規定の制服に着替えていると、五十台前半、パートメンバー最年長の斉藤さんが声をかけてきた。
「おはよう、堤さん。もう仕事慣れた?」
「ええ、まあ。おかげさまで」
洋子は当たり障りなく応じた。
「よかった。て言うかあたしったら毎朝同じこと聞いてるわね。だはははは」
斉藤さんが歯茎をむき出して洋子の肩を叩くと、他の先輩おばさんたちも斉藤さんにつられるように次々と銀歯を覗かせて笑った。まるでサルの群れだ。
洋子は笑顔を崩さず軽く頭を下げ、サル山を後にして店内へと向かった。
「──お会計、三六七八円になります」
商品の読み取りを終え、レジのキーを叩く。
近ごろはエコの観点から、顧客に買い物袋の持参を奨励しているため、購入した商品を詰め帰るためのビニール袋は有料となっている。どのようにするか、毎々最後にチェックせねばならない。
「ビニールの袋は、お付け致し──」
顔を上げ、目の前に佇む客の顔を今初めて確認して、洋子は思わず声をあげた。
「あっ」
「こんにちは」
今晩トンカツであろう客は、牧野だった。
この仕事を始める時、ご近所に顔が差すのは時間の問題だろうと思っていたのだが、たまたま洋子の勤務時間帯に合わなかったのか、それとも皆こことは別にある小さなスーパーや商店街で買い物を済ませているのか、この一ヶ月間誰とも会うことがなかったのだが。
牧野はようやく我慢から解放されたといった具合に満面の笑顔を浮かべている。
「いつ気づくかなって、ニヤニヤしちゃったわよ。わかんなかった?」
「すみません」
洋子は苦笑して肩をすくめた。
「いいのよう、仕事に集中してるってことじゃない」
褒められてるのか何なのか、洋子は顎を突き出すように軽く会釈した。
牧野の財布を持つ手に動きがない。後ろに視線を滑らせると、次の客とばっちり目が合った。視線が痛い。
「いつもはね、こっちじゃないのよ。商店街なんだけどね。お肉屋さんが法事で四、五日ほど休むっていうから」
牧野はそう言うとようやく三千円を取り出した。ちょっと待って小銭あるから。牧野はそう言ってゆっくりとした手つきで小銭を探し始める。
その隙に、牧野に気づかれないように、後ろの客に小さく頭を下げた。
牧野は小銭を探しながら、また話し始める。
「もう一つ商店街の方にさ、ほら、スーパーあるじゃない? あれがダメなのよ。何にも揃わないじゃない」
また牧野の手が止まる。話に応じるわけにもいかず、洋子はただ微笑んで頷く他なかった。後ろのお客さんがお待ちですから。そう言うべきなのだろうが、まだ牧野に対して屈託なく口を利ける間柄ではないし、この場面では牧野もまた客だ。無碍にするわけにはいかない。
せめてこちらの思惑に感づいてくれやしないものかと、洋子は微笑みつつも目一杯眉根を寄せて困った表情を浮かべてみたが、牧野はまったく汲み取ってくれなかった。
「伊藤さんからね、堤さんがここで働いてるの見たって聞いててね、あああたしも一回見に行かなきゃねえ、なんて言ってたんだけど、中々機会がなくてね。こんなことでもないとね、そうそう生活のパターンっていうの? そういうのって変わるもんじゃないでしょう?」
そう言ってまた小銭をがさごそと探し続ける。
後ろの方に並んでいる客たちが、前のレジ、後ろのレジへと分散して行くのがわかった。牧野の次の客は、ここまできて他所へ移るわけにもいかず、明らかに苛立った様子で成り行きを見守っている。いっそ一言、文句でも言って急かしてくれた方が助かるのだが、そうはならなかった。
前のレジを担当する、斉藤さんと同期の中田さんが振り返る。客の一人が、移った先の中田さんへクレームを入れたらしい。その表情に、あなた何してるのといった非難の色が浮かんでいる。
洋子は中田さんと、鬼の形相を浮かべている客へ頭を下げた。
「あら、小銭なかったわ。じゃ四千円で」
洋子の下げた頭の上を、何ら悪びれる様子のない牧野の笑い声が通り抜けていった。
「本当、困るんだよね」
副店長が足を組み替えると、安物のイスがギイッと鳴った。かれこれ五分くらい、同じような小言が繰り返されている。
「あのおばちゃんはあのおばちゃんで、お客さんに違いないけどさ、あのおばちゃんの相手して喜ばして、他何人もお客さん怒らせちゃったらさ、意味ないよね、わかるよね」
副店長は苛立たしげに、机の上を指で忙しなく叩き続けている。
「申し訳ありません」
洋子は頭を下げた。
「知り合いだったからってさ、知り合いじゃなくても、おしゃべり好きのおばちゃんなんていっぱいいるんだから。そういうのにいくらでも絡まれる仕事なんだよ。そういうのうまくかわしていけるようにならないと。レジ打ちなんて誰でもできるとか思ってない? 仕事なめてもらっちゃ困るんだよね」
脂っぽい指紋の痕が付いた汚いレンズの奥で卑屈な目を光らせ、副店長は口元を片方だけ歪めてまくしたてる。
「気をつけますので」
「さっきからしおらしく謝ってるだけでさ、何にも伝わってこないんだよね。ただこの場をやり過ごそうってことしか考えてないんじゃないの?」
「そんなことは」
「そんなんだからさ、付け入られるんだよ、ああいうおばちゃんに」
たしかに何人かの客に迷惑をかけてしまったが、ここまで言われなければならないものだろうか。いいかげん腹立たしい気持ちになってきたが、洋子はぐっと堪えた。感情を読み取られないように、目を伏せる。
「とにかくさ、もっとちゃんと考えて」
その言葉を最後に、副店長はドアの方へ顎をしゃくった。もう行けということらしい。洋子は下がった。
「本当に、申し訳ありませんでした」
ドアを開け、去り際に振り返ってもう一度謝ると、副店長は目を合わせようともせず、舌打ちだけを返してきた。
「ふう」
ドアを閉じ、ため息を吐いて振り返ると、今まで聞き耳を立てていましたと言わんばかり、何人かの先輩方がニヤニヤと出迎えてくれた。同じ勤務時間帯の、今日はもう上がりの面々だ。
「お疲れさま」斉藤さんが小声で口火を切る。「あんの副店長、ほんっと口悪いからね、気をつけた方がいいよ」
気をつけようにも、もうやられちゃったじゃないの。洋子が返事する前に、誰かが横槍を入れた。
「やられちゃいました」
洋子がか細く答えると、サルたちが小さくキッキッと笑った。
ぞろぞろと更衣室へ向かう。みんなが入って扉が閉まったことを確認すると、斉藤さんが声を張った。
「まあ通過儀礼だね。副店長にはみんなやられてるから」
斉藤さんが励ますように言うと、みんな一様にうんうんと頷いた。
「通過儀礼、ですか」
「そう。あたしたちに何か恨みでもあんのってくらい、しつこくネチネチ言ってくんのよ。いい歳して現場の副店長止まりでさ、しがない立場だって自分でわかってんのよ。だからあんな風にさ、スーパーの仕事なめんなとか言ってくんのよ」
斉藤さんが同意を求めるように仲間たちに目を向けると、みんなが頷いた。
面々を改めて見て、洋子は気づいた。
「あの、中田さんは?」
直接迷惑をかけた相手だ。中田さんには謝っておきたかった。
「中田さんはまだよ。今日は六時までじゃない? なんで?」
「流れちゃったお客さん、中田さんにクレームしたみたいで。とばっちり、謝っておきたくて」
「ああ、大丈夫でしょ。よくあることだし。彼女そんなこと気にするタイプじゃないよ」
エプロンを外しながら、斉藤さんは笑った。同期の斉藤さんが言うんだから間違いないよとみんな口々に言ったが、浮かない顔で立ち尽くす洋子を見て、斉藤さんは訝った。
「あんたまさか、終わるまで待つっての?」
「いや、どうしようかなって」
「大丈夫だって。大丈夫、大丈夫。帰んな」
ブラウスを脱いで下着姿となった斉藤さんは、恥ずかしげもなく真顔で、真っ直ぐ帰るよう促してくれた。
たしかに、正直、とてもじゃないが六時までなんて待てない。洗濯物を入れなければいけないし、陽菜が帰ってきてしまう前に夕食の支度も済ませなければならない。
だからと言って、業務中に声をかけるわけにもいかない。
そうこう考えると、斉藤さんの意見は、非常にありがたかった。
「じゃあ、帰らせてもらって、いいですかね」
斉藤さんをはじめ、みんなの顔色を窺うように訊ねると、一人のおばさんが更衣室に入ってきた。給湯器で入れたらしいお茶を持っている。
「はい、堤ちゃん、お疲れ様。お茶淹れてきたから。これ飲んでから帰りな。副店長の洗礼を浴びて、これであんたも本当の仲間入りってとこだね」
おばさんがそう言うと、みんなゲラゲラと笑った。
「あ、ありがとうございます」
湯飲みを受け取ろうとした時、おばさんが笑って手が震えているものだから、手が滑ってしまった。
「あっ」
次の瞬間、アーッという大勢の濁声に、湯飲みが割れる音が響き、次いで湯飲みが割れたことに対するワントーン高い叫び声が続いた。そして、よくもここまで息が合うものだと感心するくらい、最後に、あーあ、という低い濁声が重なった。
お茶と、割れた湯飲みの破片が床にぶちまけられて悲惨な様相を呈し、洋子の脇腹のあたりには、ぐっしょりと大きな染みができていた。
「大丈夫? 堤ちゃん」
おばさんが慌てて気遣う。
「ええ、大丈夫です」
お茶はぬるめに淹れてあったようで、火傷はしなかった。ブラウスもこれから着替えるので、まあいいだろう。だが、
「堤さん、副店長の洗礼を浴びて、お茶も浴びちゃった」
斉藤さんが茶化すと、全員が歯茎やら銀歯やらを覗かせて、今日一番の笑い声を上げた。幾つものだらしなく垂れ下がった胸が、肌と同じ色の下着の中で、笑い声に合わせて揺れるのを眺めながら、洋子は今日何度目になるかわからない愛想笑いを浮かべた。次の瞬間、その笑顔が引き攣って固まるのがわかった。
夕飯の買い物をここでしていくことにした。中田さんのレジに並べば、ついでに謝ることもできるからだ。
お会計の際に一言詫びを入れると、中田さんは、よくあるから、と言って微笑んでくれた。洋子の後ろに並んでいる客はいなかったので、文句の一つを言うくらいの余裕はあったはずだ。しかしそうされなかったということは、本当に怒っていないのか。
いや、中田さんの目は笑っていなかった気がする。表面上だけ取り繕って、後で陰口を叩かれるのだろうか。
有料のビニール袋に食材を詰め込みながら、中田さんの横顔を見て、そんな気がした。
真っ直ぐ家に帰る気になれず、自転車を押して帰ることにした。天気は良いし、春を実感し始めてからというもの、陽もすっかり伸びた。慌てて洗濯物を取り込まなくてもいいだろう。夕食も、やはり今日は簡単に済ませよう。冷凍庫の中に鶏肉があったはずだから、先にそっちをやっつけてしまおう。自転車のかごに入れたビニール袋の中身達に、やっぱり今日の出番はないよと目で告げる。
家までは真っ直ぐ一本道だが、少し遠回りをして帰ろうと、洋子は一本目の十字路を左に折れた。
閑静な住宅街。いま何時なのだろうと、時計の役割を兼ねている携帯を取り出す。ふと、ここしばらく誰からも電話もメールも来ていないことに気づく。
若くして結婚して、子供を産んで、忙しくなるにつれ人付き合いが悪くなった。今や陽菜もすっかり大きくなったので、むかしに比べれば断然時間の融通は利くようにはなっている。時折主婦業を放棄しても、夫は口うるさく言ったりはしない。しかし、長年に渡ってできあがってしまった友人たちとの距離感は今更変わりようもない。かつてのように、まめに会ったり連絡を取り合ったりということは、もうないのだ。
鳴らない携帯を眺めながら、一つ目の角を右に折れる。
時計としての役割が主なのなら、いっそ携帯など手放して、腕時計をすれば良いのではないか。そんな自棄なことを考えながら同じような景色の中を通り抜け、また、一つ目の角を右に折れる。
かごの中のビニールから飛び出しているゴボウ。押して歩いている自転車から聞こえる、チキチキチキチキというチェーンの音。
生活感、という文字が頭に浮かぶ。若くはないが、老いてもいない。にもかかわらず、地に足をつけ、ただ生きるためだけの存在に成り果てている感が拭えない。この虚無感と絶望は一体何なんだろう。
昨日は怖くて仕方がなかった。事態は過ぎ去ったけれども、不安は消えなかった。話を聞いてほしかった。しかしようやく帰ってきた夫は、目も合わせずに寝室へと向かってしまった。目の前を通り過ぎていった時の堤の横顔と、Yシャツの首の皮脂汚れが脳裏をよぎる。
洋子はいつの間にか、いつもの通りに出てきていた。いつも自転車で横目に見ながら通り過ぎている寂れた洋品店を、正面に見据えている。
真っ直ぐ帰りたくなくて遠回りしたはずなのに、上の空で歩いていると、最短ルートで元の道に戻ってきてしまっている。結局自分の帰るところは、ここだということか。
寂れた洋品店の、軒先のワゴンに乱雑に積まれた三百円の室内用スリッパを、鼻息を荒くして品定めしている中年女性を見ていると、思わず目に涙が浮かんだ。
道端で涙するわけにもいかず、洋子は感極まる前にとっとと帰ってしまおうと、自転車にまたがった。ここまで来ればもうすぐだ。自転車に乗ってぐんぐん進み、角を曲がると、喫茶エコーの看板が見えた。いよいよそれが近づいてきた時、草間療術院から一人の女性が出てくるのが見えた。女性がこちらに気づき、声をかけてきた。
「こんにちは」
「木村さん」洋子はブレーキをかけた。
木村は療術院の扉を後ろ手に閉めた。「今、お帰りですか?」
「あ、はい。仕事帰りで」
洋子が自転車を降りると、 木村は目を細めた。
「そう、お疲れ様です」
「木村さんは……」洋子は草間療術院の看板を見上げた。「マッサージ、とか?」
木村は首を傾け、ええ、と首筋を撫でた。カットソーの襟ぐりから覗く白い鎖骨が、同姓の洋子の目から見ても艶かしい。
「ここ、なかなか気持ち良いんですよ」
木村の言葉に、洋子は夫が褒めていたことを思い出した。
「あ、そういえばうちの旦那も、引越しのご挨拶の時に一度マッサージしてもらって、すごく良かったって言ってました」
「あら、そうなんですか」
二人は笑顔を浮かべたままだったが、会話が途切れてしまった。
木村の視線が、自転車のかごの買い物袋に注がれているのがわかる。これがおしゃれな紙袋で、覗いているのがオレンジならまだ絵になろうが、今目の前にある現実のそれは、ビニールから飛び出したゴボウだ。同じ主婦なのだし、何ら恥じることなどないはずなのだが、どうしても、家族以外に生活感を感じ取られるのは気が引けて仕方がない。
夕食の支度を理由にそろそろ立ち去ろうと考えた時、木村が思いがけないことを言ってきた。
「あの、よかったら、どうです?」木村が半身になって、後ろの看板に手を差し伸べる。「行ってみたら」
「え、マッサージ、ですか?」
洋子は目を丸くした。
「ええ。色々忙しいとは思いますけど──」木村は自転車のかごに目配せした。「でも主婦だって、息抜きしなきゃ」
突然の思いもよらぬ提案に、何と反応していいものやら、洋子は返事に窮した。
「短いので二十分のマッサージコースとかもありますし、その程度だったら、家事の方も大丈夫じゃない?」
確かに、そうだ。忙しいのは確かだが、別に一分一秒を争うわけではない。
「それに今、ちょうど空いてますよ。すぐやってもらえると思う」
洋子は看板を見上げた。
「そうですか。じゃあ」
疲れやイライラなど、ネガティブなものが自分の中に溜まり続け、そろそろ爆発しそうになってきているのを実感していたところだ。いい機会かもしれない。
やってみようかな、という洋子の呟くような返事に、木村は満足そうに笑った。
買い物を置きに一旦家へ帰ろうかとも考えたが、木村によると予約なしの飛び込みの客がふと訪れることが多いらしい。生ものは買ってないので、二、三十分くらい問題ないだろうと、主婦同士、意見は一致した。
院長に紹介するところまで付き添おうかと木村に提案されたが、一人で大丈夫だと丁重に断った。
木村は笑顔で頭を下げ、お先に失礼と帰って行った。木村の後ろ姿を眺めながら、洋子は店先に邪魔にならないように自転車を止めると、買い物袋とバッグを手に草間療術院へと入った。
玄関口にスリッパが並べられてあった。靴は一足もない。木村の言うとおり、今は客はいないようだった。
目の前に小さな受付カウンターがあるが、無人だった。そこで鎮座して客を待っているわけではないらしい。
洋子は奥の方へと首を伸ばして声をかけた。
「すみませーん」
すぐに、はあいという元気な男の返事があった。
出てくるまでの間、院内を見渡す。少し落とし気味の照明に、ボーカルのないヒーリングミュージックがかかっている。部屋には大小様々な観葉植物や骨格標本が据え置かれ、壁には有名なポップアーティストの海の絵や、人体のツボなどを図示したポスターなどが飾られていた。
院長のセンスで作り上げられたのであろう内装は、決して調和が取れているとは言い難いが、弱っている人間を快方へ向かわせるため精一杯努力しようとしている、一生懸命さのようなものが何となく伝わってきた。
不器用な人なのかもしれない。そこまで勘ぐっていたところで、奥から白衣に身を包んだ男が現れた。
「いらっしゃい」
ずんぐりむっくりとした体躯に、屈託のない表情。禿げあがった頭。男の容貌を見て、洋子は思わず笑みをこぼした。笑いをこらえ、挨拶する。
「あの、こんにちは」
なぜ笑われているのか、男はきょとんとして返事した。
「はい、こんにちは。初めて?」
洋子が肯定すると男は頷き、カウンターの椅子にかけ、何やら用紙を取り出し始めた。
「紹介?」洋子の返事を待たず、男は俯いて用紙をまさぐりながら続ける。「今ね、お友達紹介キャンペーンやってんの。紹介したら千円キャッシュバック」
だから勧めてきたのか? 洋子の脳裏にそんな思いがよぎった。千円キャッシュバックか、なるほど。洋子は木村の魂胆が掴めた気がしたが、だからといってこちらに何か負担や不利益があるわけではない。とりあえずここは、木村の肩を持ってやることにした。
「あの、はい、紹介なんです」
男は自分で訊ねておきながら、意外そうに顔を上げた。
「え、本当? 誰ですかね」
名前を出しても、問題なかろう。
「木村さん、です」
「木村さんって──」男が顎をしゃくる。「すぐそこの木村さん?」
洋子にはその方角が合っているのかどうか咄嗟にはわからなかったが、言葉どおり、すぐそこの木村家を指しているのだろうと判断した。
「はい、そうです」
「ああ、なるほどね。わかりました」
男はそう言うと、下敷きとボールペンとともに、一枚の用紙をカウンター越しに差し出してきた。
「じゃあまず、これ書いて下さい。名前、連絡先、住所──要するにこの枠内ね。あとはこの絵のところね」
用紙の中央に、簡単な人体の全身図が書かれてある。男は太い指でそこを指し示す。
「特に気になってる場所ね、マルつけて」
「はい」
洋子は用紙を受け取ると、壁際のパイプ椅子に腰かけた。
氏名、住所、電話番号、性別、年齢。項目に沿って必要事項を記入してゆく。歳も歳だし、場所が場所だが、体重の欄だけは条件反射的にサバを読んだ。たった二キロを削ってしまう自分に心の中で苦笑する。
人体図の箇所に差し掛かる。特に気になる場所、特に気になる場所……。
疲れてイライラしていたところを、偶然出会った木村に勧められた格好にすぎず、特に気になっている部位があるわけではない。どうしたものか。
考え込むようにボールペンの尻を唇に当て、何気なく顔を上げると、男がじっとこちらを見ていたらしく、とっさに満面の笑みを作って言った。
「申し遅れました。草間です」
(つづく)
<次回>
<前回>
<はじめから>
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<あらすじ>
些細な問題から合コンの予定をパアにしてしまった飯野淳司は、仲間から罰ゲームをさせられることになる。
「いまから俺らの前を通る五人目を、ラブホテルに誘うこと」
渋々応じる淳司の前に現れた五人目は、偶然にも以前電車で席をゆずったことのある不気味な女だった。酒に酔ってそれと気づかぬまま声をかける淳司。肯定する女。ふたりは、流れで関係をもってしまう。
後日、淳司は自宅のベランダから思いもよらぬものを見た。アパートの表の電話ボックス。淳司の部屋をじっと見上げていたのは、例の女だった。
女のストーカー化を懸念した淳司は、ふとした思いつきで難を逃れようと企てた。しかし後先を考えないその行為がさらなるトラブルを引き起こし、女を思いもよらぬ狂気へと駆り立てる。
この女からは、逃れることはできない──絶対に。