コロコロvs抜け毛

「自分自身との終わりなき闘い」

【ホラー小説】袋小路(5)

拙くて恥ずかしい限りですが、むかし初めて書いたホラー小説を公開致します 


【ホラー小説】袋小路(5)



 どことなく視界がクリアになっている気がした。まな板の上の玉ねぎを見る。次いで、ダイニングのドアの向こうを振り返り見る。気の持ちようなのかもしれないが、今まであったはずの、焦点を合わせるためのコンマ数秒のタイムラグや目の霞みのようなものが軽減している気がする。洋子は木村がやった仕草と同じように、首筋に手をあて首を回してみた。
「そんなに気持ちいいもんなの?」
 夕食を待ちわびる陽菜が、テーブルに頬杖をつきながら言った。
「うん。ビックリした。二十分でも全然違う」
「ふーん」
 二十分だろうが六十分コースだろうが、そもそも若者には縁のない話。陽菜はつまらなそうにテレビに顔を向けた。
「お、いい匂い」
 堤が着替えも済ませず、ネクタイだけを取った姿で現れた。
「親子丼だよー」
 陽菜がメニューを紹介する。
「ごめんね、簡単なもので」
 申し訳なさそうに眉根を寄せる洋子に、何を悪びれているのかまったくわからないという風に、堤は椅子を引いた。「なんで。親子丼うまいじゃん」
 いつもと変わらぬ円満な夕食。三人で他愛もない会話をしながら、陽菜は時折、洋子に対して目配せをした。しかし洋子は気づかない。
 中々気づいてくれない母親に業を煮やし、陽菜は思い切って口を開いた。
「ねえ、お母さん。あのこと言ってくれた?」
 咄嗟に何のことだかわからず、洋子はきょとんとした。
 まったく何のことだかわからず、堤はぽかんとした。
 間抜けな表情を見て、陽菜は両手でマラカスを振るような仕草で苛立ってみせた。
「ほらあ、昨日の」
 昨日の。洋子の脳裏に、檻の中を右往左往する獣が浮かんだ。
 しかし陽菜の用件はそちらではなかった。陽菜は、声を押し殺すように小声で続けた。
「友達の話」
「友、達?」大江の話ではないのか? 洋子は一瞬戸惑ったが、ようやく何の話を持ち出されているのか気づいた。「あ、ああ! リョウスケくん」
 そうだよ、遅い。陽菜が口を尖らせる。
「なに、何の話してんの?」
 堤が箸の先をしゃぶりながら、二人の顔を見比べた。
「お母さん、言ってないでしょ、その感じだと」
「ごめん」
 娘に詰め寄られ、洋子は肩をすくめた。呆れた様子でテレビの方へそっぽを向く陽菜を尻目に、洋子は堤に向いて重々しく口を開いた。
「あのね、陽菜に友達ができたの」
 ついに話が切り出された。丼をかきこみながら話を聞く父親に、陽菜はテレビに顔を向けたまま、期待と不安が入り混じった視線を両親の方へ向けた。
「よかったじゃん。第一号?」
「……かな」
 屈託なく問いかけてくる父親に、うまく返答できない。陽菜は助け舟を求めるように洋子に視線を向ける。
「そ。男の子のねー」
 洋子はわざとらしく明るく返したが、そこで堤の箸が止まった。
「ふーん」丼を置いて、両手を膝に落とすと、堤は二人に言った。「で? 何を改まることがあんの?」
 質問はもっともだった。何も悪いことなどしていないのに、洋子と陽菜は必要以上に縮こまっている。 
 ここで話をやめると、余計におかしくなる。洋子が口を開く。
「でね、今度さ、家に招待しようかなって思って」
「何で?」
「別にいいじゃん!」
 堤の、何でという質問が、否定に聞こえたらしく、陽菜は思わず感情を露わにした。
「洋子、何で?」
「何でって。陽菜の、友達だし」
 ボソボソと話す洋子に、堤はきっぱりと言った。
「……ダメ」
「え、何で」
 大黒柱の答えに二人とも納得がいかない様子で立てつく。
 堤は箸を取り、一口ほおばった。「何か、気にいらないから」
「何それ」
 陽菜は目の前の父親を、下劣なものでも見るかのように見据えた。堤は意に介さず、口の中のものを飲み込むと、洋子に向かって言った。
「友達なんだろ? 家にあげるだけだろ? いいよ別にそんなの、本当は。だけど話の切り出し方が気に入らない。そんな大した話じゃないことをさ、何をそわそわ二人で改まってんだよ。何かやましい感じに映っちゃうよ?」
「やましくなんかない!」
「おまえは黙ってろ」
「祐介、何言ってんの? やましいわけないじゃない。気持ち悪いよ、その発想」
「ま、やましいってのは、ちょっとアレだけど」
 堤は咳払いして、再び箸を置いた。
「とにかくさ、後ろめたくないんだろ? なのに人の顔色窺うようにそわそわと改まられると、変な心象を与えるよって話だ」
 要するに、子を思うが故の嫉妬じみた心配が、ちょっとした成り行きで、意地を張らせてしまうに至ったらしい。
 洋子は察して、ため息をついた。夫の言うとおり、こちらの切り出し方が悪かったのかもしれない。もうこうなると収拾がつかない。夫自身もわかっていながら、後に退けなくなっているのだろう。
 だが陽菜は不信と怒りが収まらないらしかった。
「何なの。マジうざいんだけど」
「あ?」
「何、やましいって」
「やましいってのは、ちょっとアレだっつってんだろ。バカ」
「ちょっと祐介、バカはないんじゃない」と洋子。
「うるせえよ、黙ってろ」
「どっちがバカよ」陽菜が声を荒げて立ち上がる。
「バカだろうがよ、人の話も聞けねえで。いちいち突っかかってくんなよ、いつまでも」
 堤は立ち上がる娘に箸を向ける。
「向けないで、汚いお箸」
「汚いってなんだ」
 洋子がなだめる。「ちょっとやめてよ」
 陽菜は意に介さず、鼻で笑って父にケンカを売った。
「前から思ってたんだけど、その箸先しゃぶったり箸向けたりする癖、大っ嫌い。テーブルマナー知らないの?」
「誰に口きいてんだこの野郎」
 堤は声を荒げた。
「もういいから、落ち着いて二人とも」
 洋子が場の収拾を図るが、もう取り付く島もない。
「うるせえって。人が非、認めてんのにいつまでもねちねち突っかかりやがってよ。大した話じゃねえのに二人で畏まってるからこうなるんだろうが」
「ふんっ。それが非を認めてる人の態度? そんなんだから大した話じゃなくても畏まっちゃうんじゃん」
「何だと」
「ねえ、もう、いいかげんにして」
 洋子の仲裁に聞く耳を持たず、二人の諍いは止まらない。
 二人がなじり合う傍で、洋子はゆっくりと首を振りながら、小さく、早く、呟いた。
「もういいかげんにして……ねえいいかげんにして、いいかげんにしてよ──
 洋子は丼を両手で鷲掴みにすると、立ち上がりながら頭上に振り上げた。
「いいかげんにして、いいかげんにしていいかげんにして」
 堤と陽菜、二人ともが洋子の様子がおかしいことに気づき、思わず目を丸くしたその時、洋子は町中へ轟くのではないかというほどの金切り声を上げた。
「いいかげんに、してえっ」
 洋子は振り上げたそれを、思い切り床に叩き付けた。分厚く簡単に割れないはずの丼が、粉々に砕け散り、中身が床に飛び散った。
 温厚な洋子がここまで強い感情を露わにしたのは初めてのことだった。堤も陽菜も圧倒され、互いを罵倒する勢いはすっかり消え失せた。
 洋子は肩で息をしながら、屈んだ姿勢からゆっくりと上体を起こすと、眼球がせり出すのではないかというほどに目を剥いて怒りを露わにし、震える声を搾り出した。
「もう、限界」
 目が合った陽菜が思わず一歩たじろいだのを見て、洋子はゆっくり目を伏せた。そして再びゆっくりとした動作で屈むと、自身が汚した床の上にそのまましゃがみこんだ。汚らしく飛び散った卵や鶏肉、米粒を、素手でつまみあげていく。
「……せっかく、マッサージ行って、少しすっきりしたのに。それだって、いろいろ気を使いながら、二十分くらいなら何とかって思って、やっと出来たことなのに。今日、せっかくそれで、少しはスッキリできたなって、嬉しかったのに──
 床に這いつくばり、手の平をべとべとにしながら汚れ物を拾い上げる。
「台無し」
 テーブルの下から聞こえた恨みがましい最後の言葉に、堤と陽菜は、言葉を失った。

 

 

 

 

 


 目に見えぬ境界線を互いに意識しながら、今日も一つのグラウンド上で様々な部活動が始められていた。野球部、陸上部、サッカー部、ソフトボール部、テニス部。様々なユニフォームに身を包んだ若者たちが汗を流し始めている。
 バットがボールを叩く金属音や、幾つものスパイクが土を噛む音、男女入り混じった怒号や掛け声などが幾重にも重なって、紺碧の空へこだましては消えて入った。
 グラウンドの端、プールと並んでそこだけはきっちりと区画整理されたテニスコートの脇を、陽菜は制服に身を包んだ姿でゆっくりと通り過ぎた。
整列して顧問の指導に耳を傾けている男子部員を横目に、女子部員たちがウォーミングアップの周回ランニングを始めていた。白いアンダースコートから覗く、黒く焼けた健康的な脚が眩しい。
「堤さんバイバーイ」
 ランニング中の列から、制服姿の陽菜に声が飛んだ。陽菜は列に手を振った。
「バイバイまた明日ねー」
 部活動の邪魔にならないようグラウンドの端をぐるっと回り、陽菜は裏門から学校を後にした。
 門を抜けた先で、同じようにして帰宅していく幾つかのグループを見送ると、岡本陸が手を振りながらやってきた。
 待ち合わせの相手の笑顔につられるように、陽菜ははにかんで手を振り返した。
「お待たせ」
「俺も今来たとこだよ」
 帰る道すがら、陽菜は陸に昨晩の出来事を話した。身振り手振り交えながら身体いっぱいで表現する陽菜の話を、陸はポケットに手を突っ込んだまま、落ち着き払った態度で聞き入れた。
「──ね。ひどくない?」
 踏み切りの遮断機が上がり、二人同時に歩き出す。電車が通り過ぎた風圧で乱れた前髪をかき上げながら、陸は苦笑した。
「んー。ハルちゃん、お父さんのこと嫌い?」
「嫌いじゃないけど。でも昨日のは許せない」
 陽菜は、小さくなって行く電車の後ろ姿に目を細めた。
「俺まだわかんないけど、でも自分の子供が女の子だったら、やっぱお父さんみたいに心配しちゃうかな」
「そうなの?」
「いや、そりゃわかんないけど親の気持ちなんて。でも男が女の子を心配する気持ちならわかるような気がするから、それのデッカイ版なのかな? みたいな」
「ふーん、そうなんだ」
 陽菜は口を尖らせる。
「たとえばさ、今、真夜中だとすんじゃん? ここでバイバイして、ハルちゃん一人で帰らせるとすんじゃん? そりゃやっぱ心配だよ」
 陽菜は立ち止まった。周囲を見渡し、真夜中だったらとシミュレーションする。すぐにはイメージが湧かず、先を行く陸の背中に声をかけた。
「ね、ていうかさ、ハルちゃんってあだ名やめてくんない? 前から言ってるけど」
 陸が振り返る。「何で」
「何か、朝の連ドラみたいだからやだ」
「ハルちゃん?」
「ハルちゃん」
 他愛もない会話をしながら国道を横切り、一本裏へと進む。角を折れて喫茶エコーの看板が見えた時、陸が腕時計を確認すると、片道十分もかからない通学路をたっぷり十五分以上もかけていたことに気づいた。
 そのまま前方に目を凝らしていると、草間療術院から洋子が姿を現した。
「お母さん」
 不意に声をかけられ洋子は目を丸くしたが、娘だとわかると微笑んだ。
「ああ、おかえり」
「こんにちは」
 やりとりから陽菜の母であると察し、陸が頭を垂れる。
 再び頭を上げたその顔を確認して、洋子の口が、あ、という形になった。
「もしかして、山口リョ──」
 母が言わんとしたことを察し、陽菜がすかさず割って入る。「岡本陸くん」
「はじめまして」陸はもう一度軽く頭を下げた。
 洋子はチラッと陽菜の顔を見て、同じように会釈を返した。「岡本くん、ね。はじめまして。陽菜がお世話になってます」
 陽菜が照れくさそうに、洋子が出てきた方へ目をそらした。
「またマッサージ行ってきたの?」
「うん。だって昨日せっかくさ、リフレッシュできたと思ってたのにさ」
 しかめっ面の母親を見て、陽菜は陸に悪戯っぽい笑みを向けた。
「ほら、ね」
「うん、本当だ」
 どう反応して良いものやら、陸は控えめに笑う。
 洋子が首を傾げた。「なに?」
「昨日のこと。ちょうど陸くんと話してたの」
「あんたヘンなこと言ってないでしょうね」
「でも同じ男だから、少しはパパの気持がわかるかもだって。ね?」陽菜が陸を肘で小突く。
「アラよくできた子」陸の第一印象に気を良くして、洋子が提案した。「よかったら、あがってってもらったら?」
「え、いいの?」陽菜が素っ頓狂な声をあげる。
「もちろん。時間があれば、だけど」
 洋子が陸に視線を移す。
「え、うん……」
 はっきりしない陸に代わり、陽菜が整理する。
「そうしなよ。塾まだでしょ? あのね、実はね、元々ね、塾の時間まで裏の公園あたりでさ、時間つぶそうかなって言ってて」
「ハルちゃん、ベラベラしゃべりすぎ」
「えへ、ごめん」
 洋子は二人を見て目を細めた。
「お父さんの話をしたばっかだから気が引けてんでしょ、岡本くん。大丈夫よまだ帰ってこないから。別に無理にとは言わないし、ちょっとしたら帰ってもらってもかまわないし」
「そうだよ」陽菜が同調する。
「ん、じゃあ、そうさせてもらおうかな──いいんですか?」
「もちろん。こっちが誘ってるんだから」
 すみません、と陸はもう一度頭を下げた。
 母子が横に並び、少し後ろに陸が続く。前からやってくる人を見て、陽菜が言った。
「あ、お隣さん」
 木村だ。洋子は自然と笑顔になった。
「木村さん、こんにちは」
 向こうもこちらに気づいたらしく、笑みをたたえた。
「あら堤さん、こんにちは。陽菜ちゃんもいっしょ」
「そこで偶然会ったのー」
「あんた言葉遣い」
 娘を睨みつける母親を木村は手を振って制した。そしてパッチリと大きな目を開き、洋子に探るような視線を向ける。
「そういえば、どうでした?」
 何の話かすぐに察し、洋子は頬に手を添えた。
「すごく良かったです。この子が小さいころ以来、コリなんてないと思ってたんですけどね。あちこち固まって悪くなってたみたいで。痛いような気持ち良いような」
 木村は満足そうに頷いた。
「わかります。たまにで良いんで、続けた方が良いと思いますよ」
 小さく何度も頷いて話す木村に、洋子は少し照れくさそうに言った。
「はい。というか、今また行ってきたとこなんです」
「えっ」木村は目を丸くした。
「そうなんです。昨日は肩とか腰とか、こりやすい場所の指圧マッサージだったんですけど、今日は首まわりのリンパマッサージと、鍼とお灸もお試しで少しやってもらって」
「へー、色々あるんだ」母が受診しているメニューの豊富さに、陽菜が感嘆した。
 木村が訊ねる。
「ちなみに、いかがでした?」
「そうですね、ちょっと今、頭がボーっとしてます。眠いような、少し気持ちが悪いような」
「あ、わかります。揉み返しとか、鍼に慣れてないとか、じゃないですかね」
「ああ、なるほど。そういえば院長もそんなようなこと言ってました」
「やってもらってる最中から気持ち悪かったですか?」
「いえいえ、気持ち良かったです。癖になるかも」
「ケンカの度に来ることになりそうだしねー」
 陽菜が茶々を入れると、いちいち余計なこと言わないの、と陸が陽菜の袖口をつまんだ。
 少し沈黙が生じ、洋子が思い出したように言った。
「そういえば、お友達紹介キャンペーン中だって言うんで、あたし勝手に木村さんの紹介でって言っちゃったんですけど……大丈夫でした?」
「そうなんですか。全然こっちは大丈夫ですよ」
 木村は笑顔で首を振る。
「よかった。千円キャッシュバックって言ってました。あのずんぐりむっくりな先生」
「そもそも個人経営でキャンペーンとか言ってるのも何だか、ねえ」
 院長の人となりを分かり合う二人だけが笑った。
「ですんで、次にでも戴けるんじゃないですかね。キャッシュバック」
「聞いてみます。何かすみません、あたし厭らしかったですね」
「いえいえいえ、そんなことないです。別にそういうんじゃないんで」
 昨日、木村と洋子が居合わせたのは全くの偶然だったし、そんなもののために勧めたわけではないのは、今や明らかだった。洋子は激しく手を振った。
 通りすがりの会話としてはもう充分だろう。そんな雰囲気が漂ったところで、木村が自分の進行方向を指で突っつくように差した。
「じゃ、ちょっと夕飯の買出しに行ってきます」
「毎日メニューを考えるのも大変ですよね」
 洋子は眉根を寄せたが、木村の回答はもう一段、辛そうなものだった。
「ええ。でもウチは主人がほとんど帰ってきませんから。楽なもんです」
「そういえば見たことない」
 陽菜の視線が宙を漂う。
「未だにご挨拶できてなくて、すみません」
 頭を下げる洋子に、木村はうろたえる様子を見せた。
「謝っていただくようなことじゃ。こちらが不在にしてるわけですし。また機会があれば」
「ええ、是非。それじゃ」
「さよならー」
 最後は陽菜の元気な声で締め括られた。
 家路に着くと、洋子が主婦の生活習慣で何となくキッチンに向かってしまい、それに疑問を持たずに続いた陽菜が陸を招き入れ、三人は流れでダイニングテーブルに着いた。くつろぐのならリビングの方だろうが、三人はそのままそこでおしゃべりを始めた。
 ひょんなことから上がらせてもらうことになったクラスメートの女子の家。緊張を取り繕うように、陸が口火を切る。
「さっきの、綺麗な人だね。女優さんみたい」
 ただ場を取り持つための話題ではあったが、それは陸の本心でもあった。
「祐介もデレデレしてたしね」洋子が不機嫌そうに言う。「……でもわかる。細くて、肌とか真っ白で」
 若者たちにジュースを注ぐために席を立った母親の背中を見ながら、陽菜はつまらなそうに言った。「でもあれで大丈夫なのかなって思っちゃうけど。夏とか倒れちゃうんじゃない」
「何か疲れてる感じだったよね」
 陸が同調する。
「あれじゃ部活もたないよ」
 陽菜が頬杖をついて毒づくと、洋子は背中で笑った。
「でもさ、あの疲れた感じがまた色っぽいよね」
 陸も同じように頬杖をついて、思い出すように天井のあたりを眺めた。その様を陽菜が横目に睨みつける。
 洋子はグラスに注いだブラッドオレンジジュースを二つ運んでくると、拗ねる娘を愛おしそうに見つめた。
「ま、大人の魅力だね。陽菜にはまだまだ早いかな」
「どうせあたし黒いよ。太ってるよ」
 陽菜の対面に腰掛け、洋子がなだめるように言う。「テニス焼け消えないねえ」
「テニス焼け? え、だってハルちゃん──
「テニス部だったの。でも三年で転校して入部しても、どうせすぐ引退するし」
「だから文化部なんだ」
「そ」と陽菜。
「へえ。でも見てみたかったなあ。テニスのカッコ」陸は遠慮なく、陽菜の頭から足元までをジロジロと見た。「そうだ、ねえ、写真とかないの?」
 さわやかな若者だからか、厭らしさはない。
「あるよ。ねえ?」
 洋子が二階を指差す。陽菜はそっぽを向いたまま首を振った。
「ない」
 親子の正反対の回答に陸は苦笑する。「どっち」
「ない。どのみち、見せない」
 こりゃだめだ。洋子は陸に肩をすくめて見せた。
「岡本くん、夕食は?」
「眠くなっちゃうから、塾の日は、終わって家に帰ってから軽めに摂るようにしてるんです」
「そう。どのみち今からじゃ、時間的にも厳しい、かな」
「すみません。気を使ってもらって」
「ごめんね、何もおかまいできなくて」
 申し訳なさそうな表情の洋子に、陸が小さく頭を下げた、その時だった。
──あ、また」
 陽菜と洋子が同時に席を立った。
「どうしたの」
 突然どうしたというのか。事態が飲み込めず席に着いたまま質問する陸に、陽菜が何を見るでもなく視線をキョロキョロさせたまま答えた。
「変な人がいるの」
 変な人? と眉根を寄せる陸に、洋子が答える。
「癇癪持ちの人。あたしたちもついこないだ初めて見たんだけど」
「一昨日」陽菜が補足する。
「だっけ。怖かったよね」
 陽菜と洋子がそっと頷き合う。
 あまり大きな声で話さない方が良いのだろうかと、陸も静かにした。するとやがて、それが聞こえてきた。
 ダッ。
 オラッ、ダッキャダーッ。
「本当だ」
 陸にも聞こえた。
 聞こえるはずもないだろうが、そっと足音を立てないように陽菜が部屋を移動する。ダイニングを出て、廊下を挟んで反対のリビングの入り口に差し掛かったところで振り返り、陸を手招きした。
 洋子とともに後に続く。
 陽菜はカーテンの隙間から、そっと軒先の様子を窺った。
「あの人、玄関から出てくんだけど、あの門からは出てこないの」
 交代を促すように陽菜が身を引く。次に陸がその隙間から軒先を見た。どうやら斜向かいの家らしい。陸の目にもすぐにわかった。短髪の中年男。
「何してるんだ、あれ」
 洋子は改めて見るまでもないと、少し後ろで自分の両肩を抱くように腕組している。
 デレケ、オラッ。
 ダッキャアダッ、オイッ。
 断続的に、男の咆哮が続く。隙間から目を凝らしながら、陸が呟いた。
「あれ、なんつってんだろ」
「出てけって聞こえるんだよね、あたし」陽菜が低い声で囁いた。
「やめてよ」
 洋子が非難する。
 陸はより一層目を凝らし、そして耳に神経を集中させるように傾けた。
 オラッ。
 デエケッ、オラッ。
 複雑な笑みを浮かべ、陸が部屋の中へ振り返る。
「確かにそう、聞こえなくもないね」
 残念な結果を通告されたように、洋子が肩を落とす。
 陸が訊ねた。「あれ、しょっちゅう?」
「いや、だから、一昨日初めて」と陽菜。
「あそっか。でも、何に向かって言ってんのかな……」言いながら、陸は二人の向こうに時計を認め、ハッとした。「あ、やべ、ハルちゃん、俺、塾行かなきゃ」
 もうそんな時間、と二人が同時に応える。
「あの、ありがとうございました」
 陸は洋子に会釈し、引き上げようとした。だが今は……。洋子と陽菜は怪訝な表情で見つめ合った。それを察した陸が堂々と言い放つ。
「大丈夫でしょ。あの門から出てこないんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
 出てこないと言い切る娘に、洋子が異論を唱える。「そんなのわからないじゃない。まだ一回しか見てないんだし」
 陽菜は途端に弱気になる。
「え、そうかな、出てきたりするかな」
「そうよ。人が通りかかったらどんな反応するのかわからないじゃない」
 陸は胸をどんと叩いた。
「大丈夫っすよ。俺、男だし」
 しかし洋子は首を横に振った。
「そうは行かないわよ。お客さんだし、陽菜の友達だし、何かあったら大変だし」
「ね、お母さん、そこまで送ろうよ」
 提案する陽菜だったが、陸は割って入った。「でもそうすると、俺がいない帰りが怖いでしょ? 二人でも」
 たしかに……。洋子は思わず腕組した。
「お母さん、しっかりしてよ。大人でしょ」
 埒が明きそうにないと、中学生男子が結論を出した。
「大丈夫だって。じゃさ、玄関まででいいよ。そこまで見送ってくれたら」
 親子が無言で見つめ合うのを肯定と捉え、陸は部屋を出た。
 玄関へ向かい、背中を丸めて靴を履く陸の背中を、陽菜と洋子が心配そうに見つめている。
「じゃ、本当ありがとうございました。すみません急にお邪魔することになって」
「いいえ」
 洋子は力なく微笑んだ。
「ねえ、そういえば、声しなくない?」
 陽菜が言うと、三人でまた耳を澄ます。たしかに、あたりは静まり返っているようだ。陽菜はサンダルを引っ掛けると、陸を脇へ退けてドアを少し開けて見た。
「いない」
 だが陽菜の後ろに続いた陸が意見する。「や、玄関、ちょっと開いてる」
 陽菜がはっとしたように洋子を振り返る。
「前といっしょじゃない? あの人のお母さんがさ」
「お母さん?」
「て言ってもおばあちゃんて感じだけど。こないだも、あの人が叫んでるのを途中で連れ戻す感じで。ね?」
 陽菜に促され、洋子が同意した。「そう。暗くてよくわからなかったけど」
「ふーん」陸は唇を尖らせた。「今なら間近で見れるかもね。俺、よく見てみようか」
「やめなさい。危ないかもしれないから」
「何か目つけられたりしたらやだ」
 二人に矢継ぎ早に否定され、陸は苦笑した。
「それもそうだね、ごめん。大丈夫、真っ直ぐ行くから。つーか塾もうやべえ。あの、ありがとうございました。お邪魔しました
 陸が慌ただしく言うと、陽菜は気をつけてね、と小さく手を振り、また来てください、と洋子は微笑んだ。
 あまり大きな声を出さないように、改めてそれぞれ別れを告げた。
 門扉を抜けて、陸が今一度、堤家を振り返ると、玄関の扉を閉めないまま陽菜と洋子が心配そうに見送ってくれていた。陸は微笑んで会釈すると、前に向き直った。
 もうすぐ六時。陽はずいぶん落ちて、空の青は深みを増し、夕焼けの方へと寒暖色のグラデーションを描きはじめていた。
 歩き出そうとしたその瞬間、陸は身震いがした。少し冷え込んできたせいなのか。それとも、これから横切ることになる家に対してのものなのか、恐らく、後者の理由によるものだろう。陸の目は、未だ閉じられぬままの家の玄関に釘付けになっていた。
「まだ、いんのか」
 怖気を振り払うように、あえて声に出す。
 念のため、あまりそちら側に寄らないよう、堤家側に沿ってゆっくりと歩く。伊藤という表札が掲げられた堤家の隣家は、特段、何の変哲もない。あの男の叫び声を聞いて、表の様子を窺っている気配もなかった。
 問題は、この位置から見えるであろう、向かいの家だ。大江という表札が見えた。
 あまり露骨に見るなと釘を刺されたばかりなので、陸はすれ違い様に横目でチラッと見てみることにしたが、向かって右に開くドアの構造上、すれ違い様には中の様子を窺い知ることはできなかった。
 何の危険も問題もなく、陸は喫茶エコーと草間療術院に挟まれた区画の入り口にまで辿り着いた。
「ふう」
 陽菜たちには大丈夫だと啖呵を切ったものの、やはり緊張していたのだろう、肩が上がって首が固くすぼまっていたことに気づいた。
 そんな自分に苦笑して後ろを振り返ると、堤家の玄関から、陽菜と洋子が首を出して見送ってくれているのが見えた。陽菜に至っては、親指を突き立ててOKのサインを出していた。
 可愛い親子だな。微笑ましい気持になって、同じOKのサインを返そうとしたとき、陸は視界の左端に違和感を感じた。
 大江家の、少しだけ開け放たれたままの玄関扉。その真っ暗な深淵に、何かがいる。
 そちらに目を凝らしてみると、四つの目がこちらを凝視していた。OKのサインを作りかけた手が、宙で固まる。
 四つの目の正体は二つの顔によるものだった。一つは、先ほどカーテンの隙間から見たあの男。白髪混じりの短髪に黒い肌、かなり薄い眉の下で、切れ長な鋭い目をしている。もう一つは、陽菜たちが言っていた、男の母親と思われる人物だった。白髪の束がだらりと顔の前に垂れ下がっていて、全容は見えないとはいえ、髪はきちんとまとめられずボサボサなのではないだろうかと思われた。絵に描いたような大きな鷲鼻の下で、くすんだ肌の色と同化した薄い唇が真一文字に結ばれている。そして、あたりの薄暗さと、灯りのつけられていない部屋の中の暗がりとが、顔中の皺という皺に深い闇を落としている。
 二人とも、この距離からでも感じ取れるほどに、その両の眼に負の感情を携えていた。
 その深淵に吸い込まれていきそうな感覚に襲われ、陸は陽菜たちの方を見ることもなく、走り去った。 

 

(つづく) 

 

 

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 些細な問題から合コンの予定をパアにしてしまった飯野淳司は、仲間から罰ゲームをさせられることになる。

「いまから俺らの前を通る五人目を、ラブホテルに誘うこと」

 渋々応じる淳司の前に現れた五人目は、偶然にも以前電車で席をゆずったことのある不気味な女だった。酒に酔ってそれと気づかぬまま声をかける淳司。肯定する女。ふたりは、流れで関係をもってしまう。
 後日、淳司は自宅のベランダから思いもよらぬものを見た。アパートの表の電話ボックス。淳司の部屋をじっと見上げていたのは、例の女だった。
 女のストーカー化を懸念した淳司は、ふとした思いつきで難を逃れようと企てた。しかし後先を考えないその行為がさらなるトラブルを引き起こし、女を思いもよらぬ狂気へと駆り立てる。

 この女からは、逃れることはできない──絶対に。