コロコロvs抜け毛

「自分自身との終わりなき闘い」

【ホラー小説】袋小路(6)

拙くて恥ずかしい限りですが、むかし初めて書いたホラー小説を公開致します 


 【ホラー小説】袋小路(6)

 

「ただいま」
 もう眠っているのかもしれないと思ったが、堤はネクタイを緩めながら声をかけた。
「おかえり」洋子はベッドに横になったまま言った。「ごはん、ごめん、テーブルにあるから、チンしてもらっていい?」
 祐介は、ああ、と返した。「陽菜は?」
「部屋。お風呂、祐介最後」
「了解」
 スーツをハンガーにかけ、Yシャツをその辺に投げると、堤は洋子の眠るベッドに腰かけた。
「洋子あのさ、昨日、ごめんな」
「別に」
「わかるだろ? 心配なのと、何かちょっと、意地になっちゃったのと」
 堤は思わず頬を掻いた。
「わかってる」
「つんけんすんなよ」
「してないって。気にしてないから」
 堤は布団にもぐりこみ、隣に並んだ。「洋子」
「やめて」
「な」
「ごめん、やめて」
「いいじゃん」
「疲れ、てるの」
 背中を向けられたまま少し強めに否定され、堤は手を引っ込めた。
 傍を離れず、背中に向かって話しかけた。
──そうだよな、お前があんなにキレんの、初めて見た。そんだけ、疲れさせてたんだよな」
「祐介が悪いわけじゃない」
「いや、俺が負担かけてたんだよ」
「いいって。だから、気にしてないから」
「ごめんな」
「……」
「洋子」堤が手を伸ばす。
「だから、何でそうなるの」
「洋子」
「ちょっとっ」
 声を荒げて振り返る洋子に気圧され、堤はたじろいだ。
「んだよ」
 洋子は上体を起こすと、肘をついて寝そべったままの堤を冷たく見下ろした。
「疲れてるの。そんな気に、なれない」
──そう」
 堤は一言言い残すと、ベッドから滑り抜け、脱ぎ捨てたYシャツを皺くちゃに掴んで寝室を後にした。
 仲直りに一番手っ取り早いと踏んだ方法が裏目に出た。
 そもそも、他愛もないケンカならともかく、そうでない場合は別だ。問題自体が何の解決にも至ってないときに突然交渉を持ちかけてもうまくいくはずがない。仲直りセックスなんてものは、関係が修復に向かい始めている流れで総仕上げにするものであって、それによって問題をチャラにしてくれる効果があるわけではないのだ。
「ふーっ」
 湯船の湯で顔を拭う。
 いい歳をして何をしてるんだろう。一緒になって十五年も経つというのに何をしてるんだろう。
 湯船からあがり、熱いシャワーを浴びる。
 ──ちゃんと大事にしろよってことだ。加藤の言葉が脳裏をよぎる。何もわかってねえのかな、俺。
 シャンプーをいつもより多めに手に取ると、雑念を汚れと一緒に洗い流すように、激しく頭を掻き立てた。
 俯き加減でシャワーを被る。激しい飛沫とともに流れ落ちていく泡の行方を、細めた目で追って見ていると、排水溝の辺りに小さな物体を認めた。
「何だ」
 気になってシャワーを止めて見る。
 それは黒に近い深い緑色をした、ぬめりのある、小指の第二間接くらいまでの大きさの奇妙な生き物のようだった。
「げ、なんだこれ──ナメクジ?」
 裸でいることにぞっとして、他にもいないか、急いで回りを確認する。大丈夫だ、他にはいない。
 改めて屈み込むと、堤はそれを凝視した。
「いや、これ」
 わかったことがあった。それは、子供のころ山登りをした時に噛まれたことのあるものだった。
──ヒルだ」

 

 衣替えをして数日間はその効果をてきめんに感じ取ったものだが、半月以上経った今となっては、夏本番をこれから迎えるにあたって、これ以上脱ぐものがないという状態が歯がゆく感じられる。
 陽菜はすっかり湿り気を帯びたピンク色のハンドタオルを裏側に折り返すと、首筋の汗を拭った。
「ただいまあ」
 返事はない。陽菜は家に上がるなり浴室へ向かうと、今しがたまで汗拭きにしていたハンドタオルを洗濯機に投げ入れた。
 いまだ母からの返事がない。鍵は開いていたからどこかにいるのだろうが。両親の寝室を覗いてみると、洋子はそこにいた。
「ただい……ま。何してんの?」
「あ、おかえり」
 洋子は下着姿で、腰に手を添えて立っている。
「どうしたの、脱いじゃって」
「お母さんさ、痩せたでしょ」
 姿見に向き直って言う。 
「うん。痩せた」
「ね? 痩せたなあって思って」
「見とれてたの? 自分に」
 陽菜はベッドの上に座った。母のセミヌードショーを横から観戦する。
「最初ね、草間さんとこ行った時のカルテみたいのにさ、嘘の体重書いたんだけど」
「サバ読んだの? やるじゃん」
「でもね、そのサバ読んだ数字なんかとっくに越えちゃった」
「すごいじゃん」
 色々と向きを変え、ポーズを変え、洋子は姿見に見入る。「陽菜はまだ若いんだから無茶なダイエットとかダメだからね」
「えー、あたしも痩せたい」
「だーめ」
「えー。でもさ、お母さんそんな痩せてどうすんの?」
「モデルでもやろっかな」
 陽菜に顔を向け、どう? とウインクを送る。
 だが陽菜はあぐらをかいた膝の上で頬杖をつくと、難しい顔で言った。「でもさ、ちょっと正直言っていい?」
「なに」
 洋子はまた鏡に向き直り、上機嫌にポーズを変える。
「確かに痩せたしさ、鎖骨のあたりとかもすっごい白くて綺麗なんだけど」
「隣の木村さんみたいな?」
「そう、そうそう。ホント木村さんみたい」
 洋子は一次審査を通過したモデル志願者のような顔を陽菜に向けた。
「うん。でもね、何か健康的じゃないんだよなあ。怒んないでほしいけど、ちょっと病的な感じっていうか」
「え、嘘」娘の非情な宣告に、洋子は落胆の色を隠せなかった。腰にあてていた自信たっぷりな手が、だらりと落ちる。「何か、落ち込んじゃうわ、その話」
「ごめん」
「ううん。別に陽菜悪くないし」
 洋子は二次審査で落選したモデル志願者のような顔で俯いた。
 母の落胆をよそに、娘は純粋な質問を投げる。
「でもさ、何のために行ってんの? 綺麗になりたいの?」
 娘の質問を受け、洋子は母親の顔で返した。
「ううん。疲れとか、ストレスとか、そういうの取り除くため」
「たまってんだ」
 若者の知った口に、苦笑する。
「大人はそんなもんなの。でまあ、それをやることで、結果的に綺麗になれるんだったら、それはそれで嬉しいなっていう。でも、何だろ、そう簡単にはいかないよね。マッサージしてもらっても、何日もしたらすぐカチコチになるし。どれだけリラックスしても、すぐイライラするし」
 行ってる意味あんの? と陽菜。
「わかんない。でも先生は、続けることに意味があるって」
「向こうは稼ぎたいからそう言うだろうね」
「そりゃそうだけど。でもそういう理由だけじゃないと思うよ。生きてたらどんどんガタはくるんだから、定期的にメンテナンスしなきゃいけないんだって。このイタチごっこはある程度は仕方ないって」
 諦めに似た感情。洋子は傍に脱いであった薄手のデニムを手に取り、履き始めた。
 陽菜はその様子を眺めながら、母を想った。この町へ引っ越してきてからというもの、どこか母は疲れている。引っ越して間もない春先の時点で既に、自分と父との口げんかを見かねて怒鳴り散らし、皿を割り、鬼の形相で、限界を口にしていた。
 父にとってここは我が城で、外の世界に変わりはない。娘の自分にとっても、外の世界は変わりはしたものの、幸いにも人に恵まれ、大過なく過ごせている。
 だが、母はどうだ。
 どこの誰に対しても胸を張って紹介できる、こんなに若く美しく優しい母が、一人自宅の寝室の姿見の前で、娘の帰宅に気づかないほどに一心不乱にポーズを取って余暇を過ごしている。
 陽菜は何だか涙ぐましい気持になった。せっかく気を良くしていたところに、余計な水を差してしまったかもしれない。少しフォローしなければ。陽菜は正座して背筋を伸ばした。
「でもま、確かに、身体に良いって信じて続けてるからこそ、その程度の疲れやイライラで済んでるって見方もできるかもしれないね」
 被ったカットソーの首から顔を出すと、洋子は笑った。
「大人な意見じゃない。そうなんだよね、お母さんもそう思う。それにね、実際、本当に気持ちいいの」
「へえ」
 洋子は頷いた。
「マッサージと鍼灸と両方やってるんだけどね」
「結局、両方なんだ? お金けっこうかかるんじゃないの?」
「ご近所さんだしお得意さんだからってことで、特別料金設定してもらってる。でも一応お父さんには内緒ね」
「口止め料」
 手を差し出す娘に、洋子は舌を出して否定した。
「マッサージ受けた後なんて、もううとうとしちゃってさ。毎回眠っちゃうの。起こされた時にはもう時間がきてて、何かすっきり、みたいな」
「へー。あたしもやってみたいな」
 女同士、この手の話は盛り上がる。
「そうね。今度いっしょに行ってみようか」
「うん。ね、お腹減ったー」
「そ? じゃ、早いけどごはんの支度しよっか」
「やった!」
 陽菜はベッドから跳ね降りた。
「若者らしくてよろしい」
 洋子は鼻で笑うと、七分丈の袖を肘の上まで捲った。

 

 

 

 

 ダッキャーダーッ。
 オラッ、オラッ、ダッキャダーッ。
 デレケ、デエケッ。
「また始まった」
「うん」
 堤家の食卓に、いつもの怒号が届けられた。初めて耳にしてから、かれこれ一ヶ月。初めの頃のような恐怖感は次第に薄れてきてはいたが、その代わり、男が叫ぶ頻度が急速に増してきているように思えた。引っ越してきてしばらくの間は全くと言っていいほど聞こえなかったはずなのに、それがここへきて、数日に一回のペースになりつつある。
 恐怖感が薄れたとはいえ、やはり気持ちのいいものではないし、何より耳障りだ。
「ねえお母さん。笑わないで聞いてほしいんだけど」
「わかった」
 陽菜は咀嚼していたマーボー茄子を飲み込むと、箸を置いて母を見据えた。
「変なこと言うけどさ。あの親子って、どうやって生活してるんだろう」
「さあ。考えたこと、ないな」
 唐突な思いもよらぬ質問に、洋子は答えることができない。
「人間なのかな」
「なに?」
 思わず笑みを浮かべ、首を傾げる。だが陽菜は真剣だ。
「ホントに人間なのかな。実は何か──悪魔とかだったりして」
「何それ」
 陽菜は腰の位置をずらし、座り直すと、声をワントーン下げた。
「何かね、最近増えたでしょ、あれ。何か、あの叫ぶのが増えてきてから、お母さんが痩せてきたような気がする」
「こじつけ」
「あれ悪魔の呪いとかなんじゃない」思わず早口でまくしたてる。
「やめてよ。気持ち悪い」
「だって、意味わかんないこと言ってるしさ」陽菜はテーブルに手をつき、身を乗り出して迫る。「うちの方、見てるし」
「ちょっと、怖いんだけど」
「だってお母さん、いくら病院通ってもさ、すぐ悪くなるんでしょ?」
「病院じゃないよ」
 細かいことはどうでもいい。陽菜は強く首を振る。「とにかくさ、あそこ通ってても、すぐ疲れとかストレスとか溜まるんでしょ?」
「まあ、そうだけど」
「それってやっぱり、そうなんじゃないの」
「何がそうなのよ」
「だからさ、だからさ、あたしとお父さんは平気じゃん。元気でしょ。お母さんだけ調子悪くなってんじゃん。それってやっぱさ、お母さんは家にいるからなんじゃないの」
 落ち着きをなくし始めている娘をなだめるように、洋子はゆっくりと返した。
「あたしだってパート出てるし。それにああやって叫ぶのって今くらいの時間が多いから、大体あんたと一緒の時だよ?」
 陽菜は目をそらし、乗り出しかけた身を引く。
「そうかもしんないけど、でもやっぱ、一番家にいるのはお母さんでしょ。だからお母さんだけが何か一番影響を受けてるのかもしれないよ」
「何よ、影響って」
 洋子が訝ると、陽菜は俯いたまま目を向けた。
「だから、呪いの」
 陽菜の口が、不貞腐れた時のように尖っている。洋子は約束を破った。
「ふふ」
「あー、笑った」
 外からまた、甲高い破裂音のような怒号が轟く。
「でも、陽菜の言うとおりかも、ね」
 呪い? と陽菜。
「呪いってのはあれだけど、でも確かに嫌だもん。せっかくの晩ごはん時に、あんな風に叫ばれたり」
 洋子が窓の向こうに視線を向けると、陽菜も後ろを振り返って言った。
「しかも、うちの方を見て、ね」
 洋子は口をへの字に曲げ、肩をすくめた。「だからそういうのがストレスになってるのかも。それを言うならもちろんあんたもなんだけどさ」
「あたしはもう慣れたもん。感じ方って、人それぞれだから」
「陽菜、ほんとに大人だね」あどけなさの残る顔で、しっかりと芯のある視線を向けてくる娘を、洋子は頼もしく感じ始めていた。「ありがとね。居てくれてよかった」
「うん、だからやっぱ、あたしは耐えられてるけど、お母さんは耐えられてないんだよ、きっと」そう言って、冷めかけたおかずに箸を伸ばし、一口頬張った。「お父さんもずーっと、帰り遅いし」
 娘の見解に、耳を傾ける。「うん」
「ひどいよね、女二人、怖い思いしてるってのに」
 そう愚痴りながら次々と箸を伸ばしていく娘に、洋子は夫のフォローの言葉をかけた。
「でもそれは、家買って、お母さんの稼ぎが減って、今まで以上に頑張んなきゃって思ってやってくれてるわけだから」
「そうかもしれないけど、お母さんそうやって我慢するから」
「ありがとう。でもお父さん、本当に忙しいみたいだから。この春に入った若い子の面倒見ながらやってて、大変みたい。しょうがないよ」
 納得いかないという顔で、パンパンにした口の中のものを噛み締める。
 洋子はテーブルの上で両手を組み、顎を乗せて言った。
「でも陽菜、あんたも油断しないでね。疲れやストレスの原因なんて自分じゃわかんない部分もあるんだから。あんた、耐えられてるって言うけど、あんただって大事な時期に転校して、人間関係が変わったり、テニス辞めたり、受験勉強あったり、色々と新生活のストレス受けてるはずなんだから」
「わかってる。あたしは大丈夫。強いから」
 陽菜はグラスのお茶を飲み干すと、ピースサインを作った。
「だからそれがわからないよって話」
「わかってるってば。あたしは思ったことすぐ吐き出してるし」
「ならいいけど。悩みとか、ない?」
 陽菜の箸が迷う。
──ない」
「陸くんのことくらい?」
「別に悩んでないし」
「そう。でも悩んでないかもしれないけど、頭の中いっぱいなんじゃないの?」
「そんなことない」
 陽菜は箸を強く置くと、洋子を睨みつけた。込められた感情は怒りではないのが見てとれる。
「若い時なんてそんなもんなんだから、別に隠さなくていいよ。ね、お母さんには教えてよ。好きなの?」
 母のストレートな問いに、思わず目をそらす。「んー」
「彼女とかいないんでしょ? むこう」
 頷く陽菜。
「そっか。良かったね」
「良いかどうかなんてわかんないじゃん」
「良いでしょ。あんたがいちばん仲良くやってるってことじゃない」
「そうかもしれないけど……。でも、あたし黒いし、太ってるし」
「あんた太ってないって」食い下がる娘を洋子は制した。「要は、自信がないんでしょ」
 陽菜は呟くように言った。「──白くて細い人になりたい」
「やっぱり」
「そりゃそうだよ! 女だもん。白くて、細くて、綺麗な人になりたいよ」
「たとえば?」んん、と唇に指を当てて視線を彷徨わせる娘に、洋子はここぞとばかりにアピールしてみた。「お母さんみたいな?」
「お母さん大変そうだから、やだ」
 洋子が思わず笑ってしまうと、陽菜もつられて笑った。
「ふう。大変だね、女って」陽菜が生意気を言う。
「大変だよ。飲むか! 今日は」
「あたし飲めないよ」
「冗談。早く飲めるようになればいいのに。待ち遠しい」
 うん、と陽菜がはにかむ。
「陽菜とお酒飲めるようになったら楽しいだろうな」
「ふふ。もうちょっとだよ。あと五年。待っててね。それまで身体に気をつけて」
「年寄り扱いしないの。お母さん若い方でしょ?」
「そうだけど。とにかく、心配なの。あんまり無理しないでね」
「ハイハイ。わかってる、ありがとう」
「あとさ……話変わるんだけど」陽菜が少し不貞腐れたように言う。「父の日のプレゼント、何がいいかいっしょに考えて」
 なんだかんだと言って……。洋子は陽菜のことを心から愛おしく思った。娘をこんなに可愛いと思ったのはいつ以来だろう。気がつくと洋子は、陽菜を優しく抱きしめていた。

 

(つづく) 

 

 

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 渋々応じる淳司の前に現れた五人目は、偶然にも以前電車で席をゆずったことのある不気味な女だった。酒に酔ってそれと気づかぬまま声をかける淳司。肯定する女。ふたりは、流れで関係をもってしまう。
 後日、淳司は自宅のベランダから思いもよらぬものを見た。アパートの表の電話ボックス。淳司の部屋をじっと見上げていたのは、例の女だった。
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 この女からは、逃れることはできない──絶対に。