コロコロvs抜け毛

「自分自身との終わりなき闘い」

名もなきファンタジー小説(1)

★アマチュアファンタジー小説家応援企画★
 むかし人生で初めて書いたファンタジー小説を公開します! プロットって何?って知識レベルで思いつくまま書きなぐった黒歴史。恥さらし上等、アップするにあたり修正なし。


 名もなきファンタジー小説(1)

 

 クルブはマントを羽織り、またしばらく留守にすると、独り言のように呟いた。
 マチャは胸の前に両手を組み、出稼ぎに出る夫を寂しげに見送っている。
 ナギは膝を抱えて座ったまま、父の姿を奥の部屋から睨み付けていた。どこか呆けた表情に、蔑みの視線を携えている。
「ナギ、挨拶なさい」
 マチャが促すが、ナギは返事しなかった。
「いいんだ」
「だって」
 クルブは片手を振った。「じゃあ」
 父は扉を開け放つと、息子と一度も視線を交えることのないまま、差し込んだ逆光の中へその輪郭を滲ませて出て行った。
 扉が閉まると、部屋に暗みと静寂が戻った。
「ナギ、あなたね」
 マチャは何か言いたそうだったが、息子の手応えのない反応を予期したのか、口をつぐむと台所へと向かった。
 ナギは見るともなしに、父の出て行った扉を眺め続けた。
 ナギは、父の仕事を知らない。ただ、隣町から荷馬車がやってきて、町中の男たちを荷台に乗せて連れて行く。それだけは分かっている。それはユカの町のありふれた風景なのだが、なぜだかナギは幼い頃から、荷台に乗せられて行く父の姿がひどく不恰好に感じられていた。
 息子として、父がとても情けなく感じられていた。
「さて」ナギは気だるそうに立ち上がった。「僕も仕事に行かなきゃ」

 

 ナギの仕事は、町長のベルベルルの家の外壁を、真っ白に保つことだった。
 ベルベルルの家は、白く塗っても、白く塗っても、すぐに砂埃で黄ばんでしまう。ベルベルルは、黄ばみを許さなかった。黄ばみはやがて茶色になり、最後には黒くなり、恐ろしい闇夜に負けてしまうからだと言った。
 ナギは毎日、朝食をすませた後、仕事用の長靴を履いて家を出た。
 一体何を作っているのだか分からない小さな鉄工所のおじさんに、今日も一日がんばろうなと声をかけられ、頭を下げて通り過ぎたあたりで小石を二つ拾って、一つはあっちの犬小屋へ、一つは向こうの噴水へと投げ、犬が怒り狂う反応を楽しみ、小さく弾ける水飛沫を確認すると、大通りの角を曲がり、ベルベルルの家へと向かった。
 呼び鈴を鳴らすと、ベルベルルの娘のネルコが、白いペンキで一杯のバケツと刷毛を両手に出てきてくれた。
「おはよう、ナギ」
「おはよう、ネルコ」
 二人は友達だった。
「パウムはもう、裏手へ回ったわよ」
「そんなことだろうと思っていた。何故なら彼は、いつも僕より早く来ているからね」
「そうね」
「ただ、どれくらい早く来ているのかは、僕にはわからない」
「そうね。あなたの方が遅いんですもの」
 ネルコはバケツを差し出した。
「それじゃ、今日も精一杯がんばってね」
 ナギは頷いて、バケツを受け取った。
「任せてくれ。ペンキ塗りには自信がある」

 

「おはよう、パウム」
 ナギは脚立の上にいるパウムへ声をかけた。
 パウムはズボンに沢山ついたポケットに、それぞれ一本ずつ予備の刷毛を突っ込んでいる。
「おはよう、ナギ」
 パウムが思わず、刷毛を持った手を振ってしまったため、白いペンキがナギの頬にピチャリとかかってしまった。ナギは思い切り舌打ちをした。
「ハハハ、悪い悪い。しかしペンキを避けられなかった君も悪いかもしれない。いや、そもそもペンキがかかったくらいで腹を立てている君が悪いのかもしれない」
「さすがだな、パウム。君の悪いポイントはひとつだが、僕の悪いポイントは二つあるということか。被害者であるはずの僕が、あっという間に悪者になってしまった。毎度、その話術には驚かされるよ」
 ナギは降参した。そして己を戒めるため、今日一日、頬のペンキを拭わないとパウムに誓った。
「この話術で何か大きなことができればいいのだが、実態はただのペンキ塗りさ」
 パウムは自嘲し、やがて腹を抱えて笑い出した。
 ナギはあまり面白くなかったので、作業に取りかかることにした。
「さて、パウムよ。今日の作業を始めようじゃないか。外壁はどんな具合だ?」
「僕にそれを聞くのかい」
「パートナーは君だけだ。その君が僕より先に来ているんだ。やむを得ないことだと考える」
 ナギが語気を強めると、パウムは首をすくめた。
「わかったよ、相棒」
 パウムは脚立から降りてきて、ナギの肩をポンと叩いた。
「説明する。一度しか言わないから、ちゃんと聞いてくれ」
「わかった」
「残念なことに、昨日も風が吹いたようだ。昨日僕たちが全力で、そう、全力を尽くして壁をすべて白く塗ったっていうのに、また風が吹いて、黄色い砂塵を巻き起こし、壁を汚してしまったみたいなんだ」
 パウムは忌々しそうに壁を小突いた。
「要するに、毎朝と同じ状況なわけだな」
 ナギは冷静にコメントした。
「そういうことだ。僕はいつだって、いつもと違う何かを期待している。でも、ベルベルルの家の壁は、今日もいつもと変わらず、少し黄色く汚れているってことだ」
 突然パウムが中指を押さえてうずくまった。どうやら壁を小突いた際、中指のあたりを少し擦りむいてしまったらしい。
「どうした、大丈夫か」
「大丈夫、今日の作業に、支障はきたさないだろう」
 パウムは顔を歪めながらも、上目遣いで大丈夫だと意思表示した。
 ナギは冷たく一瞥し、倉庫へ脚立を取りに行った。

 

 ベルベルルの家は大きいのだが、二階建ての四角いだけの造りなので、ペンキ塗りの作業は複雑ではなかった。細かな役割分担は特になく、二人一緒に同じ面に取りかかった。一面を縦に二分割して、その左右を二人で分けた。一面を二時間かけて塗り、四面すべてを塗り終わる頃には八時間働いた計算になり、朝から始めてちょうど日が暮れるという寸法だ。
 パウムはこの仕事の仕組みを考えたベルベルルのことを、恐ろしく頭の切れる男だと賞賛した。
 雨の日は作業は中止だった。雨は汚れを洗い流す効果が期待できる他、新たな砂埃を巻き起こす恐れもない。そもそも、雨の日に作業を無理強いさせて二人に風邪でもひかれてしまったら元も子もない。
 いつもと違う何かを期待するパウムは、雨の日でもベルベルルの家へ出向くのだが、ネルコに門前払いを食うのだった。
 二人はこの仕事を、雨の日以外は休むことなく、かれこれ五年も続けていた。
 労働の対価として、二人には賃金が支払われていたが、雨の日以外はただ働くだけの生活を送っているため使い道がまったくなく、金は貯まる一方だった。
 ナギは、自分が働いて得た金が一体いくらぐらい貯まったのか分からなかったし、知ろうともしなかった。きっと親が、少しは家計の足しにしているのだろうと思っていた。
「なあ、パウム」
 本日の最終面に取りかかっている最中だった。
「どうした。左側がやりたくなったのか?」
 今日は、ナギが右側、パウムが左側を塗っていた。
「違う。そんなどうでもいいことじゃない」
「なら何だ。せいぜい楽しませてくれよ」
 パウムは脚立の上で、手を休めた。
 ナギも手を止め、刷毛を空っぽに近づいたバケツに落とした。
「何で僕たちは、こんな仕事をしているんだろう」
 ナギの突然の言葉に、パウムは驚いた。
「何でって、白い壁が、砂埃で黄色くなってしまうからじゃないか。それがやがて、茶色へと、黒へと移りゆくんだぞ」
「それはベルベルルの言葉だ」
「ああそうさ。だが、その通りじゃないか。白い壁が黄色くなるんだ。白く塗り直さなければいけないに決まってるじゃないか」
 俯き加減だったナギは、パウムをキッと見据えた。
「いつもと違う何かを期待する君が、何故この点においては疑問視しないんだ? 黄色を白にしなくたっていいじゃないか」
 パウムは首を振る。
「それは違う。僕が期待する(いつもと違う何か)とは受身なものだ。それに出くわすってことなんだ。解るかい? 黄色を白くしないというのは、自分で作り出している変化だ。そんなものに驚きも楽しみもないし、それはただの仕事放棄だ」
 パウムは興奮気味に返した。
 ナギの突然の話に、迷うことなくすかさず意見できるあたり、パウムは常日頃から自分なりの考えを巡らせ、筋立てているに違いなかった。
「なるほど、パウム。君の言い分は解った。ただ一つ言わせてもらう。自分で作り出す変化に楽しみがないというのは納得しかねる。自分で作り出す(いつもと違う何か)だって、きっと楽しいものだと僕は考える」
 パウムは解らないといった具合だった。
「ナギ、君は一体どうしたんだ」
 一旦バケツに目を落とし、ナギは口を開いた。
「僕は」
 言いかけて、ナギはふと、ある一点を見つめて言葉を止めた。
 しばらくして一息入れると、ようやく口を開いた。
「パウム、あれは何だ」
 ナギの視線は、パウムの遥か先を示していた。
 目を細める視線の先には、坂があった。
 坂の右手には、ユカの町を外界から遮断する赤茶けた巨大な岩山が聳え立っており、一方、坂の左手には、ユカの町を外界と分断する深い崖が口を開いていた。
 岩山と崖の狭間には、ユカの町と外界とを繋ぐ唯一の道があった。
 道は、下ってはまた上る長い坂となっていて、下りきった谷間の位置には町の兵隊が立っていた。ベルベルルの兵隊だ。
 ベルベルルはかつて、町の外へ出たことがあった。町へ訪れた旅人の姿に感化され、自らも旅に出たのだ。しかしベルベルルは町を出てほどなくして、夜営の際、野生の獣に襲われた。出稼ぎから町へ戻る労働者たちが通りかかり、松明を振りかざして獣を追い払ったものの、既にベルベルルは脚に大きな怪我を負っていた。
 ベルベルルは荷馬車に乗せられ、ユカの町へと戻された。
 回復後、車椅子の生活を余儀なくされたベルベルルは、父の跡を継いで新町長に就任。若くして政治に専念することとなった。
 ベルベルルの父は、旅人が災いをもたらしたという考えから、よそ者が町へ入ることを禁ずる(入りの禁)を、退任前の最後の仕事として公布した。
 次いで新町長となったベルベルルは、町の若者を、自分と同じ目に遭わせるわけにはいかないという考えから、二十五歳以下の若者が町の外へ出ることを禁ずる(出の禁)を公布した。
 以来、町から外へ通じる坂道には兵隊が配備されることとなり、出稼ぎに出る大人以外は、町の出入りを禁じられることとなってしまった。
 兵隊は今日も、一人は(入りの禁)のために町の外を、一人は(出の禁)のために町の中を向いて、勇ましげに槍を立てて見張りについていた。
「パウム、あれは」
「ナギ、もしや幻覚かもしれないと考え、いま脚立を二段ほど降りて視界に変化を与えてみたんだが、結果は変わらなかった。紛れもない。坂の向こうに、誰かがいる」
 まだ何も気付いていないのか、坂の谷間の兵隊の様子に変わりはなかった。しかしナギとパウムには、坂の上の人影がはっきりと見えていた。
 西日の後光が射し、黒いシルエットとして浮かび上がる。
「一人じゃないぞ」
 パウムは断言した。
「ああ」
 ナギも確信した。
「旅団だ」

 

 一、二、三、四……五。
 シルエットの数は五つ。ナギが旅団と定義した者たちは、五人いることが見て取れた。
「パウム、見えるか」
「ああ。五人いるという結論に達したところだ。背の高い三つが、男。比較的小さい二つが、女か子どもってところだろう」
 パウムが目を細めた。
「パウム、彼らはあそこで何をやっているんだ? 近づきも遠ざかりもしないぞ」
 坂の上の五つのシルエットは、横並びにユカの町を見下ろしているように見えた。
 しばらくの沈黙。
 ナギがまるで絵のようだと思った瞬間、絵の一部が動き出した。
 横並びの左から二番目。パウムが背の高い三つと言った内の一つの影が、坂を下り始めた。
 他のシルエットに動きはなかった。谷間の兵隊は気付いているのだろうか。
 坂を下るそれは、後光から逸れるにつれ、じわりとその姿を露わにした。どうやら茶色いマントのようなものを羽織っている、白髪まじりの男のようだ。
「兵隊のところへ行くようだ」
 マントの男は坂を下り、兵隊に話しかけたようだった。町の方を向いている兵隊が、後ろを振り返った様子が見て取れた。
「何を話しているんだろう」
 兵隊が持っている槍を振りかざしていない様子から察するに、今のところ怪しい者と判断されていないのだろうか、冷静な話し合いがなされているように思われた。
「無理よ」
 突然、ナギとパウムの脚立の間から、ネルコがニュッと首を出した。
「驚いたよネルコ。その首の長さにじゃないぜ」
「そうでしょうね」
「パウム、口を挟ませてくれ。ネルコ、一体何が無理なんだい?」
 ナギが問うと、ネルコは坂下を見据えた。
「あのマントの男、何を話してるんだか知らないけど、決してあの道を通れやしないわ」
 入りの禁は絶対だと言わんばかりだった。
「兵隊は厳しい訓練を受けているの。『ここは通れない』『諦めて帰れ』の二つの台詞しか言っちゃいけない訓練よ。だからあの男がどんな手段に出たとしても、兵隊は決して道を譲らないわ」
 ネルコの予想が当たった。
 マントの男は兵隊へ色々と話しかけているようだったが、やがて後ろを向いた。微動だにしない兵隊の後ろ姿から、『ここは通れない』『諦めて帰れ』という言葉が聞こえてきそうだった。
「ね」
 ネルコが自慢げに言うと、ナギは突然、脚立から飛び降りた。
「駄目だ。行っちゃ駄目だ」
「ナギ?」
 ナギはバケツを手放した。倒れたバケツから、残り少なくなっていたペンキがこぼれ出し、黄色く乾いた地面に白く染み渡っていく。
「行っちゃ駄目だ。行っちゃ駄目だ」
 ナギはゆっくりと歩き出した。
「ナギ、どうした」
 パウムとネルコの声に応じない。ナギが仕事中に持ち場を離れるのは初めてのことだった。
 明らかに様子がおかしい。ネルコが叫んだ。
「ナギっ」
 呼び止めるためのその大声が逆に背中を押してしまったかのように、ナギは突然走り出した。
「ナギっ」
 パウムも呼び止めようとしたが、ナギは躊躇なく走った。
 二人は叫び続けたが、ナギは振り返ることなく走った。全力疾走だ。
 町の外れがグングンと近づく。どうせ通り抜けることは適わないのだと、これまで近づいたことすらなかった坂へ、あっという間に到着した。
 マントの男はすでに引き返し、兵隊の谷間から向こうの坂を上り始めている。
 ナギは初めての坂を、勢いに任せ駆け下りた。
 下り坂がスピードに拍車をかける。長靴がベコベコと情けない音を立てた。ベルベルルの兵隊の姿が近づく。
 一人が足音に気づき、ナギを見た。兵隊にこれだけ近づくのも初めてだったが、ナギの意識はそちらにはなかった。
「待ってくれ、行かないでくれ!」
 事態に気づいたマントの男が振り返った。
 ナギは続けた。
「僕の名はナギ。そちらに行きたい」
 はっきりと意思表示をしたところで、ナギは兵隊にせき止められた。一人はナギの側を、一人はマントの男の側を向いたまま、槍で×印を作った。絶対に互いの行く手を阻むという、強い意志を感じさせる。
「ここは通れない」
「諦めて帰れ」
 話に聞いた通りの言葉が告げられた。
 ナギは兵隊の一歩手前で落ち着き払った。
 マントの男はナギをじっと見据え、ナギも槍の間から鋭い視線を送った。
「僕の名はナギ。あんたを旅団の団長だと見込んだ。僕を連れて行ってくれないか」
 マントの男はゆっくりとナギに歩み寄り、兵隊の手前で口を開いた。
「どうして、俺が団長だとわかったんだ」
 乾いた声だった。
「向こうから、あんたたちが五人いるのが見えた。その中であんたがいちばん背が高かったので、団長だと判断した。先頭を歩く団長が、背が高ければ高いほど、後続の良い目印になるからね」
 マントの男は一瞬きょとんとすると、やがて笑い出した。だがナギの態度が真剣そのものであることを認めると、笑うのを止めた。
「なるほど、面白い観察眼の持ち主だ。名はなんといったかな」
「僕の名はナギ」
 兵隊は二人のやり取りを咎めはしなかった。、命じられているのは、あくまで町の出入りを規制することだけなのだろう。
「だがな、少年。仲間と旅をする上で、先頭が団長である必要はないし、背の高さを目印に歩いてるわけでもない。そもそも俺たちの中でいちばん背が高いのは、俺じゃない」
 ナギの表情は強張った。
「そんな」
 マントの男は満足げだった。
「それじゃあな、面白い少年よ。どうやらこの町は、人の出入りは禁じられているみたいだし、俺たちはもう行くこととするよ」
 マントの男は、町へ入れないことについては、やむなしといった風だった。
「ちょ、待ってくれ、団長! 僕を連れて行ってくれ」
 ナギは懇願した。
「そう言われても、な」
 顎をさすりながら兵隊に視線を移すと、兵隊は厳しい目を向けた。
「駄目なものは駄目らしい」
 マントの男は肩をすくめた。
「くそっ、一か八かの大勝負だったのに」
 ナギは落胆した。
「そりゃまた大げさな」
 苦笑するマントの男の軽い反応に、ナギは苛立った。
「大げさなんかじゃない。この町は人の出入りが禁じられているんだ。だから僕がこんな真似をしたということが町長に知れたら」
 その通り。必ず報告するからなと言わんばかりに、ナギの側の兵隊はニヤニヤと笑っている。
 ナギは歯を食いしばってマントの男を睨み付けた。
 だがマントの男は、ナギを容赦なく突き放した。
「よく分からんが、俺たちは自由を求め彷徨う身だ。規制や縛り付けをいちばん嫌う。この町にはこの町の事情があるんだろうから、もう行くことにする。ごたごたに巻き込まれるのはごめんだ」
 巻き込まれたくない。マントの男はそうはっきりと意思表示した。
 ナギの食いしばった歯から、次第に力が抜けていく。
「ナギっ」
 後ろからネルコの叫び声がした。
「おっと、いよいよごたごたになりそうだ。悪いがもう行くよ。お前もガールフレンドのところへ戻って、穏便に済ますんだな」
 後ろを振り返ると、ネルコが坂の上のあたりまで来ていた。
 このままでは本当に連れ戻される。
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
 ナギがマントの男に食い下がろうとすると、兵隊に槍で首元を抑え付けられた。
 じゃあなと言い残し、マントの男は歩き出した。ナギはその背中を、呻き声とともに見送る他なかった。
 坂の中腹まで上ったところで、マントの男が振り返った。
「ナギといったな、少年」
 マントの男は、初めてナギの名を呼んだ。
 赤く染まった空を背に、坂の上方からナギを名指すその姿は神々しくさえあった。
 威厳の様なものを感じて圧倒されたナギは、黙って続きを待った。
「俺の名は、ゼフ」
 マントの男は毅然として問いかけた。
「自由になりたいのか、ナギ」
 強い風が吹き、マントを激しくはためかせる。風に身を委ねて不規則に波打つマントは、まるで自由というものを体現しているかのようだった。
「なりたい」
 ナギは答えた。
「自由になりたい」
 ゼフと名乗る男は、そうだろうとも、と頷いた。
「自由はいいぞ、ナギ。だがな、そんな長靴じゃ駄目だ」
 ナギは足元を見た。思わず兵隊もナギの足元を見た。白いペンキで汚れた、作業用の長靴。成長に合わせてこの五年間で二度ほど買い替えたが、いつもこの長靴を選んでいた。あまりに履き慣れてしまい、何の問題も不便さも感じていなかったのだが。
「じゃあな」
 ゼフはマントを翻し、坂を上っていった。
 ナギは黙って、ただそれを見送るしかなかった。ゼフは、脛のあたりまで覆われた頑強そうなブーツを履いていた。
「ナギっ」
 ネルコの声がすぐ後ろまで来ていたが、ナギは振り返らなかった。
 坂の上では、四つの人影が、ゼフの戻りを待っているようだった。
 男が三人と、女が一人。パウムが、比較的背の小さい二つは、女か子どもだろうと目星をつけていたが、そのうちの一つは男のようだった。
 五人が合流した。ゼフから四人へ何やら話しているようにも見えたが、ナギの位置からははっきりとしたことは分からなかった。
 これで終わりではない。まだ何かあるのではないか。ナギは、何かしらの続きがあることを期待した。
 さっき、坂の中腹で振り返り、名前を呼んで話しかけてくれたように、最後にもう一度振り返ってくれるのではないか。あるいは他の四人を含め、誰かが、手を差し伸べてくれるのではないか。
 しかしナギのそんな期待も空しく、五人の姿は、坂の向こうにあっけなく消えていった。

 


 

 ペンキ塗りの仕事の関係で、ベルベルルの家に入ったのは初めてではなかったが、二階のベルベルルの部屋に通されたのは初めてのことだった。
 壁紙は真っ白で、部屋にはいくつもの間接照明が取り付けられている。この家の主が、闇を恐れている様相がここからも充分に見て取れた。
 奥の壁際に、壁を埋め尽くさんばかりの大きな本棚があった。整然と並べられたその背表紙を見ても、ナギにはそれらが一体どういう類の本なのかはまったく分からなかった。
 本棚の前に据えられた、同じ木目調の大きな机には、これ見よがしに大量の書類が積み重ねられている。この小さな町を統治する上で、一体何をそんなに書き記すことがあるのだろうとナギには甚だ疑問だった。
「聞いているのか」
 ベルベルルは不機嫌そうに、机をトントンと指で叩き続けていた。
 机の前に立たされているナギの傍にはネルコが心配そうに佇んでいる。
 これはネルコの計らいだった。
 見張りの交代をきっかけに、先ほどの兵隊にベルベルルに事態を報告されてしまうと、どんな処罰が下るか分かったものではない。ならば、ネルコに付き添われる形で、兵隊の報告に先立って自ら正直に申し出れば、お咎めなしで済まされるかもしれないという案だった。
 ナギは始めの内は反発したが、落胆の色の方が大きくすっかり気持ちが弱っていて、やがてネルコの説得に応じることにした。
 ベルベルルの家に戻ると、ちょうどパウムが後片付けを済ませて帰るところだった。
 夕暮れに顔を赤く染めたパウムは、二人をじっと見て言った。
「ナギ、君、明日も来るよな?」
 ナギは黙って俯いたまま、応えなかった。
「ナギ?」
 ネルコが促す。
「……」
「明日も来るよな?」
「……もちろんよ」
 ネルコが引きつった笑顔で代弁した。
「パウム、お疲れ様」
 ネルコが労うと、パウムは全力疾走で帰っていった。
 その背中を見送ると、いよいよ報告に向かうことにした。
 ベルベルルに対し、まずネルコが簡単に事情を説明した。そして謁見を許可されると、ナギは部屋に通された。
 気の迷い。反省の色。お詫び。この三つを忘れないでね。
 ネルコの助言だったが、ナギは開口一番、弱々しくはあったが自分の思いを口にしてしまった。
「町を出たいんです」
 これがベルベルルの機嫌を損ねた。怒りを買うほどには至らなかったが、娘と同い年の子どもの真っ向からの反発を受けて笑って済ませるほど、ベルベルルという男は温情家ではなかった。
「もう一度言ってみろ」
 机を叩く指先が早くなる。
「ちょっとした気の迷いよ」
「お前には聞いてない」
 もうネルコに口を挟む余地はなかった。
「どうした、もう一度言ってみろ」
「町を」
「町を、何だ?」
 ベルベルルは車椅子を机の前まで進めてくると、ナギの目を射抜くような恐ろしい形相で迫った。
「町を、何だ? ナギ」
 ナギはその目を間近に見た。恐ろしい目だった。
 若者を同じ目に遭わせたくないという(出の禁)の言い分は本当なのだろうか。自由を失ってしまった腹いせに、若者を今の自分と同じ目に遭わせてやろうと、本質をすり替えてしまっているのではないだろうか。
 そんな恐ろしい思いがナギの脳裏をよぎった。
「町を、何だ? 言ってみろ」
 低い声が、床を伝って腹に響く。
 ナギは息を呑んだ。
「町を、出たいと、思ってしまいました」
「ほお。それで?」
 車椅子から立ち上がることのできないはずのベルベルルが、眼前まで迫り来る気がした。
 ネルコをちらっと見やると、小さく何度も頷いている。その顔は強張っているようだった。
 ナギはすっかり気圧されていた。
「すみませんでした」
「聞こえないな」
「すみませんでした」
「ほお。それだけか?」
 もう一息だと、ネルコがギュッと目を瞑り、何度も小さく強く頷く。
「もう、しません」
 ナギはベルベルルの目を見ることができず、呟くように言った。
 その声は震えていた。
 部屋から音という音が消えた。
 耳鳴りが聞こえてきそうなほどの静寂が部屋を包んだ。
 トントントントントン。
 しばらくして聞こえてきたのは、ベルベルルが車椅子の肘掛けを指で叩く音だった。
「ふんっ」
 ベルベルルは素早い動作で車椅子を後ろへ向けた。
 ネルコが、止めていた息を吐くように言う。
「パパ、もういいわよね?」
 ベルベルルは後ろ向きに手を振った。もう行けということだと思われた。
「ナギ、よかったね」
 ネルコがナギに安堵の表情を向けた。そしてナギが顔を上げた瞬間だった。
「軽い罰で済ませてやる」
「えっ」
 ネルコが驚く。思わずナギも目を見開いた。
 ベルベルルは机の前に居直ると、机上の鈴を鳴らした。
「ナギ。貴様の(出の禁)の解禁を三年間延長する。満二十八歳まで、このユカの町でペンキ塗りに従事すること」
 ベルベルルは大きな声で宣告すると、手元の書面に慌ただしく何かを書き込みはじめた。
「え」
 ナギは声を漏らした。
「ちょっ、パパ」
 ネルコが詰め寄ると、部屋の外から二人の兵隊がドカドカと乗り込んできた。
「ちょっと、何よ、あんたたち、パパ?」
 叫び声を上げるネルコともども、ナギは兵隊に乱暴に連れ出される。
「パパ、パパ!」
 主の娘だろうがお構いなしに、兵隊は二人を強引に部屋の外へと連れ出した。
「ちょっと待ってよ、パパ!」
 もう一人が、中から扉を閉める。
 扉が閉められる瞬間、ベルベルルは机に突っ伏したまま片手を振った。
「また明日から頼むよ」
 真っ白な重い扉が閉められると、中から鍵のかかる音がした。

(つづく)

 

 

 


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