コロコロvs抜け毛

「自分自身との終わりなき闘い」

名もなきファンタジー小説(2)

★アマチュアファンタジー小説家応援企画★
 むかし人生で初めて書いたファンタジー小説を公開します! プロットって何?って知識レベルで思いつくまま書きなぐった黒歴史。恥さらし上等、アップするにあたり修正なし。


 名もなきファンタジー小説(2)

 

 玄関を出たところで、ネルコは小さく丸まったナギの背中に手を添えていた。
 日が落ちて、辺りはすっかり暗くなっている。建物の白は灰色に、黄色い土は茶色にくすんで見えた。
「ナギ」
「ネルコ。僕は町を出るよ」
「まだそんなこと言ってるの、ナギ」
「町の外に出ることの何が悪い」
「悪いとは言ってないわ。駄目だと言っているの」
「どうして駄目なんだ」
「危険だからよ」
「大人は出ているじゃないか」
「自分で答えを言ってるじゃない。大人はいいのよ。子どもは、駄目なの」
 ナギは首を振った。
「僕はもう子どもじゃない。働いている。実はペンキ塗りの仕事をしているんだ」
「そんなことは知っているわ。ナギ、働いているだけじゃ駄目なの。大人の強い肉体が備わっていなければ、危険を回避できないのよ」
 ナギは舌打ちした。
 ネルコがため息をつく。
「ナギ、押し問答はやめましょう。(出の禁)では、二十五歳未満は町の外へ出ちゃ駄目だと定義している。十七歳のあなたは、まだ駄目なのよ」
 ネルコが背中に添える手に力を込める。
「もう、嫌だ」
 ナギその手を振り払った。
「ペンキ塗りは、もう嫌なんだ。ペンキの白、土の黄色、晴れた日の空の青、天気が悪い日の空の灰色、夜空の黒。僕の世界の色は、単調だ」
「ナギ」
「何で、こんな……」
 ナギは、それっきり黙りこくってしまった。
「ナギ、今日はもう帰りなさい」
 ネルコはもう一度ナギの背中に手を添えた。
「ネルコ。僕は、緑や、青を見たい」
「ナギ」
「すまない」
「もう、町には戻って来れなくなるのよ?」
 ナギはネルコを見た。
「ピルロのようにか」
 ネルコは悲しい顔で頷いた。
「でも、町の外に出たくて禁を破るんだ。その罰が町に戻れないことなんて、そんなに辛いことだろうか」
「もう会えなくなるのよ」
 ネルコが非難した。
「そんなことはない。二十五歳を過ぎたら出入りの禁の対象外だ。外へ来てくれれば会えるじゃないか」
「でももうこの町に入れないのよ? 戻れないの、住めないの、暮らせないの。現にパウムはピルロに会えてないじゃない。ピルロはパウムに会えてないじゃない。あなたもそうなってもいいの?」
「僕はひとりっこだ」
「そうじゃなくて……」
 ネルコは苛立った。
「押し問答は止めよう。そう言ったのは君だよ、ネルコ」
 もはやナギの目には、この世界は映っていなかった。茶色いマントの後ろ姿。それだけがナギの心を支配していた。
「じゃあね」
 ナギは虚ろな目でネルコを見ると、別れの言葉を告げた。
 ナギはその言葉を最後に駆け出した。
「ナギっ」
 闇へと消えていく友人の背中を、ネルコは追うことができなかった。

 

「旅人?」
 ベルベルルは頬杖をつきながら、兵隊の報告に耳を傾けていた。
「はい。訪ねて来たのは一人でしたが、他にも坂の上に四人の男女がいました」
 兵隊は直立不動で受け応える。
「旅人、か。で?」
「私たちに、何をしているのかと尋ねてきたので、ここは通れないと答えました。町へは入れないのかと聞いてきたので、諦めて帰れと告げました」
 ベルベルルはニヤリとした。
「そうか、よしよし。そしたら諦めたのか」
 兵隊は首を振った。
「男は、残念だ、むかしこの町には世話になったのに、と言いました」
「何だと」
 ベルベルルは眉を吊り上げた。
「どういうことだ。世話になったとは」
「分かりません」
「誰に世話になったのだ。いつだ」
 ベルベルルは苛立った様子で問い質したが、兵の答えは虚しいものだった。
「分かりません。私たちは、決められた言葉しか発しませんゆえ」
「チッ」
 教育の徹底が裏目に出た。冷徹に同じ言葉を繰り返すことで、容赦なく相手を追い払う効果はあるものの、今回の様な事態では柔軟さに欠ける。会話から相手の情報を引き出すことができない。
 自身の下した命令を徹底しただけだ。兵にあたるわけにはいかず、ベルベルルは苛立ちを隠せなかった。
「くそっ。ということは、判ったことはそれだけか。五人組。一人の男が近づいてきたが追い払った。男は、むかしこの町に来たことがある……」
「他にも、判っていることがあります」
 容貌のことだった。
「茶色いマントを羽織っていました」
 ベルベルルは黙って聞いた。兵隊は続けた。
「そして、ナギとの会話の際、名を名乗りました。俺の名はゼフ、と」
「ゼフ」
 ベルベルルが繰り返すと、兵隊は頷いた。
 するとベルベルルは、何かを思い出したように目を見開いた。
「ゼフ……ゼフと言ったのか」
「は?」
 ベルベルルは狼狽すると、窓際へ車椅子を走らせた。すっかり気が動転してしまっているベルベルルは、日が暮れて今まさに夜を迎えようとしていることを忘れ、勢いに任せてカーテンを激しく開いてしまった。目の前に広がった真っ暗な景色を見て我に返り、小さな悲鳴を上げるとまた急いでカーテンを閉めた。
「何をバタバタしているの」
 ネルコが扉をノックした。
 先ほどとは事態が違うと判断し、兵隊は鍵を開けて扉を開けた。
 ネルコが部屋へ立ち入ると、ベルベルルは窓際で、両腕で自分の肩を抱いて小さく打ち震えていた。
「パパどうしたの? ねえ、どうしたの」
 ネルコが慌てて問い質すも、兵隊は何と言ったものかと言葉を発することができずにいた。
 ベルベルルの返事はない。
 ベルベルルは、まるでネルコのことに気付いていない様子で、カーテンの隙間から、町の外れをじっと見つめていた。
「パパ?」
「ゼフ」
 ベルベルルは呟いた。
 その表情はどこか、寂しげだった。

 

 翌朝早くから、町には雨が降り注いだ。
 雨音でいつもより早く目が覚めたナギは、窓の外の様子を見て、今日の仕事は中止だなと確信した。
 町を出るために、ナギにはやることがあった。そのためにも、仕事が休みになるのは好都合だった。ナギが来ないと騒がれては困るからだ。
 いつもどおり母親のマチャと朝食を済ませると、ナギは雨避けの頭巾を用意した。
 息子のいつもと変わった様子を見て、マチャが尋ねた。
「ナギ、今日は雨だから、仕事は休みでしょう? どうして出かける準備をしているの?」
 ナギはかまわず頭巾の紐を縛る。
「母さん、僕が今までに稼いだお金を渡してくれないかい。買い物へ出かけたいんだ」
 マチャは、初めてと言っていい息子の突然の申し出に目を丸くした。
「買い物? 珍しいわね」
「まあね」
「幾ら必要なの?」
「分からない。ついでに言うとお金の数え方も分からないから、とりあえず全部渡してほしい」
 この五年間でナギの稼いだ金は相当なものだった。それを全額寄越せと淡々と言うナギに、マチャは驚きを隠せなかった。
「あなたが今までに稼いだお金をすべて使ったら、とてつもないものが買えるわよ」
「とてつもないものを買うんだよ」
「家?」
「は?」
 マチャは目を丸め、ナギは目を細め、二人は見つめ合った。
 沈黙の後、ナギが少し苛立ったように口火を切った。
「あの、お金を」
 マチャはまだ動揺を隠せなかったが、やがて息子の真っ直ぐな視線に気圧された。
「分かったわ、お金は寝室にあるの。大金だから大事にしまっておいた方が良いと思ってね」
 母はついておいでと目で示すと、椅子から立ち上がった。
 ナギは後に続いた。
 ナギの部屋を抜けて両親の寝室に着くと、マチャはベッドの下に潜り込んだ。
 ナギは母を待った。しばらくガサゴソすると、やがてマチャはベッドの向こう側から顔を出した。
「ほら、ナギ。あなたが汗水垂らして稼いだお金よ」
 マチャは微笑んで、封筒を二袋差し出した。
「汗水、そうだね。まあいちばん垂らしたのはペンキだろうけどね」
 ナギが口角を上げると、マチャは笑顔で首を傾げた。
 パウムとの掛け合いのようにはいかないものだ。ナギは心の中で毒づいた。
 ナギは差し出された封筒を受け取った。思いのほか重く、ズシリという手応えを感じた。これが五年間の、苦労の対価。
「こうして改めてみると、すごい額ね」
 マチャが腰に手を当てる。
「そんなにすごいの?」
「家計の足しにすれば、かなり潤ったはずね」
 マチャが笑う。
「何で足しにしなかったの?」
「あなたのお金じゃない。あなたのために使わなきゃ」
「家計の足しにしても、僕のためになるよ」
「そういう考え方をするなら、確かにそうだけど、でも子どもを食べさせていくことくらい何とかするわよ。そのお金はあなたが稼いだお金。あなたが将来使えばいいのよ」
 マチャが優しく微笑む。
 ナギはそんなマチャの顔を見ていると、思わず封筒を握る手に力が入った。
「優しいね、母さんって」
 マチャが眉根を寄せる。
「ありがとう。変な子ね」
「でもそれ、優しさのつもり?」
 ナギの声が震える。
 マチャは困惑した。
「どういうこと?」
 このままではお金が皺くちゃになってしまう。ナギは気持ちを落ち着けようと大きく深呼吸した。
「僕さ、このお金で、靴を買うんだ」
「靴?」
「昨日、町の外れに旅団がやってきたんだ」
「まあ」
 マチャはベッドに腰をかけた。ナギにも腰掛けるようにと促したが、ナギはそうしなかった。
「その旅団の一人が坂を下りてきたから、話しかけたんだ。町の外へ出たいから、僕を連れて行ってくれって」
 マチャは驚いた。
「出られるわけないじゃないの」
「そう、出られなかった」
「でしょう」
「おかしいと思わない?」
「どうして」
 マチャが小首を傾げる。
「だって、何で町の中に閉じ込められなきゃいけないのさ」
 語気が強くなる。
「閉じ込めるだなんて、大袈裟よ。若者の出入りが禁じられているだけでしょう」
「何で禁じられなきゃいけないのさ」
「それは何度も教えてきたでしょう、危険だからよ」
「そんなの行ってみなきゃ分からないじゃないか」
「行って何をするの」
 マチャの声にも力が入る。何を言っているのか本当に分からないという様子で、息子へ疑問の目を向ける。
「ナギ、町の外へ行って、何をするの?」
 具体性はない。ナギは封筒に目を落とした。
「僕はただ、自由になりたいんだ」
「自由?」
「僕は今まで、さんざんペンキを塗ってきた。かれこれ五年だ。だけどもう、嫌なんだよ。このまま二十五歳を迎えても、次にやる仕事はどうせ父さんと同じ、荷馬車に揺られて出稼ぎに出ることだろう?」
「座れば?」
 ナギは首を振る。
 マチャは頬に手を当て、しばし考え込む。
「でもまあ、きっと、そうね」
「だろう? 僕はそんなのは嫌なんだ。世界中を見て回りたい。そうして自由に生きていきたいんだ」
「町長さんのお世話にはなりたくないってこと?」
 ナギは頷いた。
「大変よ?」
 ナギは頑なな態度を取る。
 息子の真剣な眼差しに、やがてマチャはため息をつき、両手を小さく挙げた。
「分かったわ。あなたの将来だからね。好きになさい。さっきも言ったけど、そのお金だってあなたが稼いだお金なんだから、あなたが将来自由に使えば良いと思ってるのよ」
 理解を示したと言わんばかりに優しい笑顔をつくるマチャに、ナギは抵抗した。
「分かってないよ、将来じゃないんだ、母さん。今の話をしてるんだ」
 マチャは呆れ、立ち上がった。
「今なんて無理に決まってるでしょう。あなたはまだ十七歳、町長さんのペンキ塗りがあるでしょう」
「だからそれが嫌だって言ってるんじゃないか。分からない人だな」
「分からない子ね」
「もういいよ」
 ナギは後ろへ振り返った。封筒を上着の内ポケットに入れる。
「僕はこれから靴を買いに出る。そしてそのまま町を出るよ」
「出られるわけないじゃない」
「見張りをどうするかは、行ってから決める」
 ナギは雨避けの頭巾の紐をきつく締めた。
「母さん、さよならだ」
「外は雨よ。やめておきなさい」
 マチャの言葉には、遊びに行くのはまた今度にしてはどうだ、という程度の響きがこもっていた。
 ナギは寝室の扉に手をかけ、目を閉じた。
「本気だからね」
「やめておきなさいって」
 マチャが嗜めるように言う。
「本気だからね」
「出られるわけないじゃない」
「本気だからね」
「出られないって言ってるの」
「本気だからねっ」
「じゃあもう好きになさい」
 ナギは母を睨み付けた。
「母さん、お別れだ」
「あなたみたいな子どもに何ができるの。町の外へ行って何がしたいの。充分自由じゃないの。町長さんのおかげでこうして暮らしていけてるのが何で分からないの。あなたもお父さんも、町長さんのおかげで……」
「さよなら」
 ナギは強く遮った。
「さよなら、母さん」
 ナギは寝室を出ると、そのまま足早に玄関へ向かった。
 履き慣れた長靴へ足を通す。ペンキ塗りを思い出させて忌々しい気持ちになったが、これを履くのもこれで最後なのだと、自分を納得させた。
「行ってらっしゃい」
 後ろから母の声がした。
 その響きには、どこか悪意を感じた。
「狂ってるよ」
 ナギは呟いた。
 この町はおかしい。
「どいつもこいつも」
 ナギが扉を開けると、雨は小降りになっていて、空は幾分明るさを取り戻していた。
 ナギは空を見上げた。
 どこか、ペンキの白に似ていた。

 

 


 

 ナギは上着の内ポケットに入れた封筒を胸の外から握り締めながら、足早に歩いた。
 鉄工所のおじさんと目が合ったが、何も言われなかった。
 いつもの角を曲がると、ベルベルルの家が視界に入った。同時に、家へ向かう人影が見える。パウムだ。
 作業は中止のはずだが、いつもと違う何かを期待するパウムは、今日も駄目で元々、出勤してみたのだろう。そのうち玄関口にネルコが出てきて追い返されるのだろうが、ここでぶらぶらしていては、二人に見つかってしまうかもしれない。
 ナギはパウムの背中を見送った。
「じゃあな、パウム」
 ナギは途中の角を曲がり、中央広場の裏通りへと向かった。
 雨の朝のため、裏通りにはまったくと言っていいほど人影はなかった。
 ナギは何度か長靴を買いに来たことがある靴屋を訪ねた。扉はなく、アーチ状に開け放たれた入り口をくぐる。
「すみません」
 返事がない。
「まだ開いてませんか」
 ナギが大声を出すと、奥から主人が現れた。
「いらっしゃい。おやおや、これは若いお客さんだ」
「ブーツを買いに来ました」
「ほう」
 主人はナギを見て、顎を擦った。
「そういやあアンタ、見たことあるね。マチャさんとこの子だろう。その長靴はうちのやつだ。前に買いに来てくれたねえ」
 主人は嬉しそうに言った。
「で、ブーツってのは? 長靴のことかい?」
 ナギは首を振った。
「長靴ではない。旅のブーツ、旅人のブーツを必要としているんだ」
「旅人のブーツ。しかしアンタ、たしか仕事はペンキ塗りだろう」
 この小さな町で、町長の家のペンキ塗りを五年もしているのだ。やはり仕事のことを知られている。あまり迂闊な発言をすると、町を出ようとしていることがバレてしまうかもしれない。
 ナギは咄嗟に嘘を吐いた。
「父さんに、ブーツをプレゼントしたいんだ」
「ほう、プレゼント」
「父さんは町の外で働いている。そんな父さんに、頑丈で、格好良いブーツを買ってあげたいんだ」
「それは良い心がけだが、足のサイズはわかるかい?」
 もっともな意見だったが、後には引けなかった。
「僕と同じくらいだから、何とかなる。とにかく、プレゼントしたいんだ」
「うーん」
 靴屋は顎を擦った。
「しかしだね、そもそも長旅に向いたブーツは作っておらんのだよ」
 主人は困った素振りを見せた。
「嘘だろう」
 ナギは非難した。
「あれは何?」
 ナギが指差した先には、くるぶしをすっぽり覆うくらいの高さの、深みのある茶色い革のブーツがあった。棚に陳列されている数々の靴とは明らかに別格の扱いで、透明のケースに収められ、その一足だけ別の棚に置かれている。
 主人はナギの指す対象に気付くと、眩しそうに目を細めた。
「ああ、あれはね、申し訳ないが、売り物じゃないんだよ」
「どういうこと?」
「記念というか、何というか、ね。勘弁しておくれ」
 主人は説明に困った様子で詫びた。これ以上追求しないでほしいといった具合で、腰を低くした。
 しかしナギは容赦なかった。
「物を売る店で、売ることのできない物を置いておく意味が分からないよ」
 ナギは畳み掛けた。
「それに靴は履くための物だよね」
「うーん」
 ナギは詰め寄った。
「あのブーツを見せてよ」
「んー」
 主人は苦笑いを浮かべ、しきりに顎を擦る。
「何度でも言うよ。あのブーツを見せておくれよ」
 ナギの一本調子に、主人はやむを得ず承知せざるを得なかった。
「……分かったよ。ちょっと待っていて」
 待つのは構わない。ナギは頷いた。
 主人はちょっとした足場に乗り、箱を取り上げると、ナギに差し出した。
「もう、二十年にもなる古いブーツでね」
 それを受け取り、透明の上蓋を外すと、ムっと革の匂いが鼻をついた。
 しかし決して悪い心地はしなかった。今までになかった感覚。どこか少し、大人の世界に足を踏み入れたような感覚。
「履いてみるよ?」
 主人へ尋ねる。
「いいとも。でも、お父さんへのプレゼントなんだろう?」
 ナギは聞こえないふりをして、椅子に腰掛けた。
 足を通しやすいように、靴紐を上二段分ほど緩め、舌革をめくる。革の擦れる音がブーツの中でくぐもり、クフォッと小気味良い音を立てた。
「革は最上級ランクだ。ここいらの獣の皮じゃこうはならない。とても柔らかく、丈夫で、触り心地も良いだろう?」
 主人は靴屋の顔になって言った。
 長靴生活が長かったナギにとって、それはもう全く異次元の履物だった。
 丁寧になめされたのであろう革から放たれる甘い匂い。潤いと渇きのバランスが絶妙な質感を醸し出している触り心地。厚めのゴムソールは凹凸がはっきりとしていてグリップ力の強さを感じさせ、ぽっこりとしたつま先から履口にかけて柔らかくシェイプされていくフォルムは、男の無骨さと女の繊細さを併せ持っているようだった。
「古く熟成された、酒のようだろう」
「酒」
 ナギは主人を見た。
「そう。酒はまだ分からんかな。このブーツの名は、かの名酒から採ったんだ。ヴィンテージ・セロ」
「ヴィンテージ・セロ」
 ブーツに目を落とし、ナギは繰り返した。
「二十年経ったから、若干風合いは変わってしまったが、こいつは作った当初から、今と同じような雰囲気を出していたんだよ」
 主人は誇った。
「中敷にコルクを敷いてるから、最初は硬いが、履きこむ内に足に馴染む。やがて、世界で一つの、持ち主のためのブーツになる」
「ヴィンテージ・セロ」
 ナギは呟き、ブーツを撫でた。
 あらゆる要素が、ナギの胸を打った。これなら申し分ない。これなら旅に行ける。
 ゼフにも、きっと認められる。
「決めた」
「うん?」
「これを買う。気に入った」
 ナギは強い意志を持った目で、主人を見据えた。
「……そうか」
 主人は少し寂しげな表情を浮かべたが、間もなくして、商売人の顔に戻った。
「分かりました。ありがとうございます。だけど値が張るよ」
「お金はある」
 ナギは靴紐を結んだ。
「アンタが履くので?」
「それ以上、聞かないでくれ」
 客の要望どおり、主人はそれ以上詮索しなかった。
「で、幾らなんだい?」
「百が六つと、十が七つ。大丈夫かい?」
 ナギは内ポケットから封筒を一つ取り出し、そのまま差し出した。
「金勘定はできないんだ。見てくれないか」
 主人は封筒の中を覗き込み、唖然とした。
「アンタ、ものすごい大金じゃないか」
「足りるんだね」
「足りるも何も。しかしこんな大金持ち歩くと、危険だよ」
「いいから、そこから必要なだけ引いてよ」
 ナギはもう片方にも足を通した。
「では、確かに。百が六つと、十が七つね。しかし悪いことは言わない。早く家に帰った方がいいと思うよ」
 両足にヴィンテージ・セロを履き、ナギは立ち上がった。
「家には、もう帰らないんだ」
「え」
 発言が飲み込めないで呆けている主人の左手から、ナギは封筒をぶん取った。
「いつも良い靴を、ありがとう」
 ナギは封筒をポケットにしまい込むと、笑顔を送って店を出た。
 立ちすくむ主人の足元には、白いペンキの痕がたっぷりのボロボロの長靴が転がっていた。

 

 ブーツのおかげでいつもより少し視点が高く感じられたが、世界は相変わらずの世界だった。
「さて」
 ナギは、夜に行動するつもりはなかった。町を抜けた後の旅路を考えると、夜の出発は得策ではない。明るい内に脱出すべきだと考えた。
 ナギはひとまず、来た道を戻った。
 ベルベルルの家を見やると、そこにはもうパウムの姿はなかった。
 さっきまでそこにいたパウムの影へもう一度別れの言葉を呟くと、ナギは坂の様子を見に行くことにした。
 坂へはベルベルルの家からがいちばん近いのだが、ベルベルルの目に付くことを恐れ、中央広場から遠回りしていくことにした。
 靴屋のある裏通りと同じく、中央広場にも人影はなかった。ここなら人目に付くことはなさそうだった。ナギはゆっくり歩いていくことにした。
 いつも小石を投げ入れていた噴水を横切る。投げた小石は必ずしも命中していなかったらしい。周辺には小石が大量に散らばっていた。
 町の管理のずさんさ、人手不足、貧しさを感じさせたが、町の情景を損ねるようなものではなかった。
 黄色く乾いた大地に、白い外壁の四角い建物が点在するだけの小さなこの町において、小石がどこへどれだけ散らばっていようとも違和感を覚えるようなものではなかった。
 まだ開店しきっていない市場の並びを脇目に、ナギは片手で頭巾を抑えながら小雨の中を抜けた。
 中央広場を抜けると、岩山が目の前に立ちはだかる。そのまま岩沿いに、坂の方へと向かった。
 坂に近づいたのは、昨日が初めてだった。そして今、二日連続となる、坂への接触を試みようとしている。
 パウムの言葉を借りると、いつもと違う何かに、ナギはわくわくしていた。厳密には、パウムの望む、受け身なそれとは違うのかもしれないが、思ったとおり、自分で作り出す日常の変化だって、この上なく刺激的で面白いではないか。
 胸の高鳴りを覚えたまま、ナギは坂の上に到着した。
 岩陰からそっと顔を出して坂下を見下ろすと、目に映った状況は、ナギの予期せぬものだった。
「兵隊が、いない」
 坂の谷間に、いつもの兵隊の姿はなかった。
 見たままの状況を鵜呑みにして良いのだろうか。ナギは躊躇った。
「雨宿り?」
 兵隊の持ち場の脇には、薄い木板だけで組み上げられた小さな小屋があるのだが、ここからではその中の人の気配を読み取ることはできなかった。
 雨に打たれ、坂の上から谷間を睨み付けながら右往左往して、時折後ろを振り返り、ベルベルルの家を遠くに望む。
 そんなことを何度か繰り返しながら、ナギは思いを馳せた。
 無口で、何を考えているのかよく分からない、格好悪い父親。
 優しいようでいて、自分の思いや言葉に真摯に取り合ってくれない母親。
 貧しい町。貧しい家庭。
 権力者の奴隷のような生活。白いペンキ。友人との不毛な言葉遊び。
 権力者の娘との友情なんて、きっと主従関係あってこその表面的なものだろう――
 もう充分だ。
 一向に事態に変化はなかった。
 ナギは決意した。
「行くか」
 ナギは最後にもう一度後ろを振り返り、ベルベルルの家の様子に変わりがないことを確認した。
 町を出るなどと、ネルコに言わなければよかった。下手に宣戦布告してしまったからこそ、ここまで慎重になる必要が生じたのだ。
 反省を胸に、ナギは坂をゆっくりと下り始めた。
 坂の両脇は、切り立った巨大な壁と、奈落の底だ。どちらにも人が潜んでいることは考えられない。ナギは歩みを速め、やがて走り出した。
 坂を駆け下りる。ここまでは昨日と同じだ。だが足取りの軽さが違う。ベコベコと長靴の情けない音が付いてまわることもない。今は厚いゴム底が、しっかりと大地を噛んでくれているのが分かる。
 はたしてパウムの兄ピルロは、一体どうやって町を抜け出したのだろう――
 走りながら、ふと疑問が脳裏をよぎったが、ナギは雑念を振り払い、速度を速めた。
「行くぞ、ヴィンテージ・セロ」
 ナギは自分の言葉に興奮した。
 谷間がぐんぐん迫る。兵隊はいない。だが、小屋の小窓から中の様子が少し見えた気がした。人がいる。
 ネルコだ。
 足音のせいか、素早く動く気配のせいか、ネルコはこちらに気付いたようだった。窓越しに目が合った。ネルコ、何でこんなところに。
 走る速度を緩めようとしたその瞬間、ネルコの後ろに兵隊の姿が見えた。兵隊もこちらに気付いたようだった。
 まずい。小屋の中にいるのはネルコだけではない。ナギは全力で駆け下りる。
 ちょうど坂を下りきるあたりで、小屋のドアが乱暴に開け放たれる音と、ネルコの声と兵隊の怒号とが重なった。
「待てっ」
 ナギは目をつぶったまま谷間を駆け、最高速度で向こう側へと抜けた。
「よしっ」
 ナギの後ろから、兵隊の低い怒鳴り声に混じり、ネルコの金切り声がしっかりと届いた。
「ナギっ」
 ナギは走り続けた。
「ナギ、ごめんね」
 思いもよらぬ言葉にナギははっとした。
「脱走だ!」
「ナギ、ごめんね、ずっとつらい思いをさせてごめんねっ」
 ナギは振り返らなかった。
 下りから一変、坂はきつい上りとなった。スピードは落ち、足の筋肉が悲鳴を上げ始めるのが分かった。しかし足先で、組んだばかりの相棒が全力でサポートしてくれている。足の裏のグリップが、次の一歩、次の一歩へと後押ししてくれる。
 最後の方は、歩いているのとさほど変わらないスピードだった。しかしナギは走ることをやめなかった。谷の境界線を越えたとはいえ、ここで気持ちを緩めてはいけない気がした。
「ネルコ」
 ナギは、決意して臨んだ脱走という行動を、誠心誠意、務め上げようと思った。
「……はあっ、はあっ、はあっ」
 ナギは、坂を上りきった。
 がっくりと上半身を折り、両手を膝に付いた。
 坂下からの怒号はもう耳に入らなかった。苦しくて仕方がなかった。日常生活において、全力疾走することなど無きに等しく、それが急な坂となれば、なおさらのことだ。
 はじめは疲れのせいでぼんやりとしていたが、足元の地面へと落としていた視界が、だんだんとクリアになってきた。
 足元には、草があった。
「はあ、はあ、く、草……」
 ナギは、草を見た。
 唾を飲み込み、ナギは折った身体を起こした。
 ナギの目に、とてつもない、広さが映った。

 (つづく)

 

 

 


<あわせて読みたい>

www.fuyu-hana.net

www.fuyu-hana.net