コロコロvs抜け毛

「自分自身との終わりなき闘い」

名もなきファンタジー小説(10)

★アマチュアファンタジー小説家応援企画★
 むかし人生で初めて書いたファンタジー小説を公開します! プロットって何?って知識レベルで思いつくまま書きなぐった黒歴史。恥さらし上等、アップするにあたり修正なし。


 名もなきファンタジー小説(10)

 

 あっけない別れだった。
 海鳥の鳴き声が、虚しく響き渡る。
 ナギは波打ち際まで進むと、昨日のサキのように靴を脱いで足を浸した。
 川に足を踏み入れた時は冷たくて仕方がなかったが、海の水はそれよりも温かく、とても柔らかだった。
 打ち寄せた波がしゅわしゅわと小気味よい音を立てながら泡立って消えていく。その様子をじっと眺めていると、昨日見かけた老人が椅子と籠を持って歩いてくるのが見えた。
 老人は昨日と同じ浅瀬まで来ると、沖の方へと進み、海に沈んでいない奥のぎりぎりまで行った所で椅子を突き刺すように置いた。
 椅子に腰掛けると、今日もこれから魚釣りが始まるのであろう、籠から何やら取り出しているようだった。
 ナギは老人の方へ行ってみることにした。
 裸足のまま、サキと同じように、波が届いて変色した砂の跡をくねくねと辿りながらゆっくりと歩いた。
 サキは結局、生きる意味を見出したのだろうか。ふと足を止め、後ろを振り返った。
 誰もいない。
 昨日まで五人いた仲間が、今はもういない。三人は塔へ、二人は入り江の裏へと消えていった。
 緑の前に、仲間たちと数ヶ月もの間寝食を共にしたテントがパタパタと風に揺られてはためいていた。
 中から誰かが出てきそうでもあったし、そうじゃないようにも見えた。
 少なくとも二人は、渡航の手続きに行っただけだ。しばらく待っていると、テントのところへ一旦引き返してくるだろう。
 しかし、その二人を待つことはない。二人とは決別したのだ。
 これからどうしたものか。十七歳の少年は見知らぬ土地に一人となってしまった。
 前に向き直ると、老人の姿がある。
 永遠の象徴……。
 ナギは歩みを進めた。日差しが強く照りつけたが、海風のおかげで暑さは和らぎ、汗をかかずにすんだ。
 浅瀬まで来ると、沖の方へ歩み寄る。老人の背中が近づく。灰色がかった薄手の服一枚越しに、背中が痩せこけているのが分かった。帽子からは、しばらく刈っていないのだろうクシャクシャの白髪が覗いている。
 ナギは声をかけた。
「こんにちは」
 返事がない。もう一度声をかけると今度は聞こえたようで、老人は、耳が後ろに向く程度に首を振り向けた。
「こんにちは、おじいさん、何をしてるの」
 明らかに魚釣りだ。様子を見てみても、ゼフの話からもそれは分かっていた。しかし初対面の相手への初めての会話、きっかけの言葉はそれしか思いつかなかった。
 老人は相変わらず振り返りはせず、傍らに置いてある籠をくいっと指差した。覗いてみろという意思表示なのは確かだ。ナギは老人にもっと近づき、籠を覗き見た。
 中は空っぽだった。
 ナギは苦笑した。
「何も、入ってないね」
 そう話しかけると、その位置からは、老人の横顔が見えることに気づいた。日焼けして髪や肌を痛めているようだが、思っていたより若いのかもしれなかった。
「そこに、釣った魚を入れるんだ。まだ、これからだ」
 老人は初めて口を開いた。
「へえ、魚釣りか」
 ようやく、知っている事実に会話が追いついた。
 だがそれ以上、会話が続かなかった。老人は黙々と作業を続けた。
 会話をしたそうには見えなかったが、だからといって、ナギを煙たがっているようにも見えなかった。ナギの存在をきちんと認めているようでもあり、ナギのことが見えていないようでもあった。
 永遠の象徴。不思議な老人だなとナギは思った。
 ナギは、ゼフのことを話すことにした。
「僕は、遠い町から、仲間に連れられて旅をしてきて、初めて海を見たんだ」
「ほお」
 返事が返ってきた。
「とてもきれいでビックリして。僕の生まれ育った町には、こんな大きな水はなかった」
 そういって水平線を愛しげに見つめた。
「おじいさんは、毎日こうして釣りをしているの? 実は昨日も、少し離れたところから見かけてたんだけど」
「そうだね、毎日ここで魚を釣っているよ」
 老人はにかっと笑った。どうやら無愛想ではなさそうだ。
「昨日、帰り際に、近くに男の人と女の人がいることに気づかなかったかな? その二人が僕の旅の仲間だったんだけど」
「ああ、覚えているよ」
 つい昨日のこととはいえ、老人なら惚けていてもおかしくない。しかしこの老人はしっかりと覚えていたようだ。きちんと会話が成り立つ。ナギはこのまま話すに値すると踏んだ。
「彼は、ゼフというんだけど、ここを何度か訪れていて、もう何年も前から、おじいさんのことを見かけていたっていうんだ」
「そうかい」
 老人はまた、にかっと笑った。
「十年前くらいに一度、おじいさんに話しかけたらしいんだけど、覚えてる?」
 老人は即答した。
「そうだな、何をしてるんですか、と聞かれたのかな。わたしは、魚を釣っている、と」
「すごい! 覚えてるんだ」
 ナギは興奮した。しかし感激はすぐに打ち消された。
「はっは。すまんな、覚えてないよ。わたしに話しかけてくる人間は、大抵みんな同じことを聞くもんだ。わたしの答えも同じだ」
 そうか。ナギは落胆した。しかし、当時の二人の会話にさして意味はない。ナギは気を取り直した。
「ゼフが言ったんだ。おじいさんのこと、永遠の象徴のようだって」
「はっは」
「十年前も、その何年か後も、そして今回も。おじいさんは変わらずに、この場所で魚釣りをしている。ゼフはじっとしていられない人だから、おじいさんみたいな人をすごいと思うんだって言ってた」
 老人はにこにこしたまま、返事をしなかった。すると突然、手首を素早く返した。跳ねた水に顔を背けると、次いでピカピカ光る鉄の様なものが目の前を横切った。
「わっ」
 魚が、あっという間に籠へと落ちた。老人は、ほい一匹目、と自信たっぷりに言った。籠の中で魚が勢いよく跳ねる。
「すごい、名人芸みたいだ」
 ナギが目を丸くすると、老人は笑った。
「少なくとも、十年前からこんなことをしているからね」
 老人の見せる茶目っ気に、二人は笑った。老人は満足そうだったが、ナギは意識的に笑顔を断ち切った。本題に入りたかった。
「おじいさんは、ここで毎日魚を釣って過ごして、つらいと思わないの?」
 ナギの突然の質問に、老人は驚いた。
「何だい急に」
「ゼフが言うんだ。また今度、何年か経ってここへ来た時、おじいさんに変わらず魚釣りをしていてほしいって」
「ほっほ。無茶言うな。わたしも歳だよ」
 永遠の象徴が、自らを否定した。
「ゼフは、死ぬのが怖いんだ。だからじっとしていられなくて、世界をずっと旅してまわってる。ゼフにとって、おじいさんみたいにずっと何年も同じ場所で同じことをしているのは、すごいことなんだ」
「そうかい」
「何か、秘訣があるの?」
 ナギは核心に迫った。ゼフが、という体裁で話を進めたが、ゼフの思いは自分の思いに通じるものがある。
 しかし老人の答えは期待外れだった。
「ほっほ、そんなものないよ。わたしはただの年寄りだ」
「嘘でしょう」
「嘘なもんか。秘訣なんかない」
 何かもっと、有益な話がほしい。ナギは食らいついた。
「ここを出たいと思ったことはないの?」
「ないね」
 老人はにこにこしている。
「すごいね」
「そうかね」
「いいな、そう思えて」
「良いのか悪いのかなんて、分からんよ。人それぞれだ」
 老人は飄々としている。またくいっと手首を返したが、今度は水が跳ねるだけで、魚はついてこなかった。
「何で出たいと思わないの?」
「何で出たいと思うんだ?」
 ふいに質問を返され、ナギは生まれ育った町を思った。
「僕の町は、小さかったんだ。空はここと同じで青くてきれいだったけど、あとは黄色い土と、建物の白い壁しか目に映らない」
「ここだって、青い海と白い砂浜、緑の森しかないぞ」
 老人は餌を繋ぎ直しながら言った。
「でもここは雄大で、きれいじゃないか」
 ナギが反論した。僕の町はつまらなかったが、あなたの世界は美しいじゃないか。
「そうだな。同じにしちゃいかんな。すまなかったね」
 老人は大人の余裕で子供をいなした。だが子供は気づかず、鼻息を荒くする。
「だろう? ここでずっと何年もいられるのは、この世界が美しいからだ。昨日初めて海を見た時とても感動した。そして今も、その美しいと思う気持ちに変わりはない」
 ナギは苛立っていた。ゼフは死を恐れて旅に出た。自分は閉ざされた小さな世界に辟易して旅に出た。恵まれていなかったんだ。
 それに引き換え、世の中には恵まれている者がいる。飽きることのない雄大な美しい世界に生まれ育っている者がいるのだ。
 何と不公平なんだろう。ナギは怒りのこもった不気味な笑顔を老人へ向けた。
 老人は、ナギに異様な何かを感じ取ったようで、道具を傍らに置いた。
 そして座ったままナギを見上げると、細い目を少し見開いて言った。
「少年、名はなんというかね」
「ナギ」
 老人は頭を下げた。
「ナギくん、すまんが、わたしは何もしてやれんよ」
 ナギは眉をひそめた。
「きみのことを何も知らん。大変な思いをしてきたのかもしれんね。そんなきみから見て、わたしがどんな風に映ってるのかわからんがわたしはさっきも言ったように、ただの年寄りだ」
 老人は海を見た。
「この海はたしかに美しいが、毎日見ていると、やがて感動なんてしなくなる」
「嘘だ。美しいじゃないか」
「そう、美しい。ただ、何とも思わない時もあるってことだ。わかるかね。毎日毎日、何年も何年も、変わらずに美しいと感動できるかというと、そんなことはない」
「じゃあ何で、ずっとこうしてられるんだ」
 ナギは責めるように言った。
「仕方ないじゃないか。わたしはここの人間だ」
「ここを出たいとは思わ――くそっ」
 堂々巡りだ。老人の一本調子にナギは苛立った。思わず砂を蹴る。足を見て裸足だったことを思い出した。
 ナギは質問を変えた。
「死ぬことを考えたりはしない?」
 興奮が冷めやらない。ナギの口調は早口だったが、老人は時間を調整するように落ち着き払って言った。
「そんなことを考えても仕方ないだろう。今は生きてるんだ。だから生きることを考える。だから魚を食う。だから魚を釣る」
 ナギは頭をかきむしり、考えをめぐらせた。視線をめまぐるしく移した。
 老人は、そんな若者の苦悩する姿を、段々と気の毒に思い始めた。老人は片腕を伸ばし、ナギの肩に手を添えた。
「大丈夫かい」
「おじいさんは、昔からそんなだった?」
 ナギを包む空気は、すっかり弱っていた。
「すまんが、若かったころの気持ちなんて覚えとらん。わたしがこんななのは、歳のせいなのか、元々の性格のせいなのか――」
 ナギは唇をかみ締めて俯いた。すべてを見失いそうになっている今、答えを導き出してくれそうな唯一の存在から、どうにもこうにも要領を得られないでいる。
 ふと、老人にもう片方の肩を抱かれた。ナギは老人を見た。老人はナギの両肩をしっかりと掴んでいた。
 何かを伝えてくれそうな雰囲気が漂っていた。
「強いて言うならね、ナギくん」
 ナギは老人を見た。
「わたしは、家族と、友達がいる」
 ナギは黙っていた。
 分からないか? 老人は表現を変えた。
「わたしは、家族と、友達が、好きなんだ」
 くぐもっていたナギの目に、少しばかりの光が宿る。
「だから、海を美しく感じる日、感じない日、いろいろあっても、変わらずに、ここで生きていこうと、思えるのかもしれない」
 老人は、自分の言葉を確かめるように話した。
「ナギくん。きみにも、家族や友達がいるだろう?」
 老人に問われると、ナギは寂しげに微笑んで首を振った。
「いない」
「だってきみ、さっき仲間と旅って」
 老人は、肩をつかんでいた両手を離した。
「仲間とは別れたんだ。五人の仲間と旅をしてきたんだけど、その内の三人に、裏切られたんだ」
「裏切られたって、そりゃまた物騒な物言いだな」
 子供はすぐ大げさな表現をする。老人の言葉にはそんな思いが感じられた。ナギはそれを敏感に感じ取った。
「本当なんだ。お金をね、盗まれたんだ」
「なんだって」
 老人が驚く様を見て、ナギは俯いたまま笑った。
「ね、立派な裏切りでしょう」
 老人はナギを見たまま、小さく何度も頷いた。
「他の仲間は?」
「さっき話した、ゼフと、サキ。この二人は、金を盗んだ三人とは違う。三人とグルってわけじゃなかった」
「じゃあ」
「だけど」
 老人は口を挟めない。
「だけど、ゼフも、違った。僕の思ってたような人じゃなかった」
 ナギはテントの方を振り返った。
「いい人だと思ってたのに、僕に隠しごとをしていたんだ」
 老人からは、後ろを振り返ったままのナギがどんな顔をしているのかわからなかった。
「事情はよく知らんが、その隠しごとというのは、許せないようなことなのかい?」
「別に許せないってことはないよ。だけど、何て言えばいいかな、幻滅したんだ。世界を旅してて、強くて格好いいって、頼もしいって思ってたのに、本当はそんなことなくて、仲間の考えも、やることも、何にもまとめられなくて、行き当たりばったりで、それに」
「それに?」
「お金がなくなってしまった僕に、もう仲間としての価値はないんだ」
「そう言われたのかい?」
「間違いないよ」
「分からないじゃないか。金を盗んだ仲間はきみをそう見てたのかもしれんが」
「実際、足手まといなんだ」
「どういうことだい?」
「僕は何も知らなさ過ぎるし、力もないし。だからみんなに迷惑をかけてばっかりだったんだけど、お金を持ってたから、助けてもらえて、ここまで来れたんだ。だから、お金がなくなった以上、もうゼフたちとは一緒に行けないんだ」
 老人にとって、さすがに経験のない話だった。目の前の孫の様な幼き少年に何と声をかけてあげればよいものか、老人は答えに窮した。
「そうかい、そんなことが」
「あーあ、どうしようかな」
 ナギは腰に手を当て、砂を蹴った。
「ナギくん、家族はいるんだろう? うちへ帰ったらどうだい。どういう経緯で出てきたのか知らんが、心配してるんじゃないのかい」
 ナギは否定した。
「町へは帰れないんだ。僕の町は、出入りを禁止してるんだけど、僕はそれを破って出てきたんだ」
「ええ、そんな決まりがあるのかい」
 老人はにわかに信じ難い様子だった。
「うん。一度外へ出たら、もう戻れない。見張りの兵隊がいるから、そこで止められちゃうんだよ」
「そりゃまた何とも……家族はとても心配してるだろうに」
「してないよ。父さんは何を考えているか分からないし、母さんも僕を変わり者扱いして何にも聞いてくれなかった。僕がいなくなってせいせいしてるよ」
「そんな家族はいないよ、ナギくん。一度帰ってみたらどうだい」
「だから無理なんだって」
 分からない人だな。ナギは難色を示したが老人は譲らない。
「帰ってみようと試したことはあるのか? たとえば一度決まりを破った人なんかはいないのかい?」
 一度、決まりを破った人。
 ピルロ……。
 果たしてピルロは、一度でも町へ戻ろうとしたことはあったのだろうか。戻りたいと思ったことはあったのだろうか。
 少し考えたが、分からなかった。ただ言えることは、ピルロはタダンダを拠点として生活しており、町へは戻っていないという事実だけだ。
 ふと、ナギの腹が鳴った。
「はっは、ナギくん。腹が減ってるんじゃないか」
 そういえばまだ朝食をとっていない。ナギは腹を擦った。
 老人は目じりに皺を寄せて、籠を指差した。
「メシにするかい」
「いいんですか? あ、でも」
 ナギは籠に目を落とす。まだ何にも。
「そう。おしゃべりに夢中で、まだ一匹しか釣れとらん。やってみるかい?」
 老人は餌のついた棒を差し出し、目じりの皺をいっそう深くした。

 

 


 

 ナギは小さな魚を最大限楽しむべく、一心不乱に噛み続けた。老人に勧められるがまま、魚を生のまま頭から丸かぶりした。臭みはなく、骨も細く柔らかく、とても旨かった。
 結局、ナギは一匹も釣ることができなかった。老人に言わせると、釣りには魚との駆け引きが必要なものもあるが、この釣り方には特に不要で、タイミングと手首の返しの問題があるだけらしかったが、老人の経験則に基づいた話は、釣りが初めてのナギには今一つ分からなかった。
 ただ、魚が餌に食いついたときであろう、棒越しにに伝わってきた感触は何とも言えず快感だった。ただ強い力で引っ張られたのとは違う、棒自体が、硬さと柔らかさという相反する要素を併せ持った存在へと変化したかのようだった。
 試しに、棒の先の餌を空いた方の手でつまんでクイクイと引っ張ってみたが、あの感触を再現するには至らなかった。
 あんな楽しい行為が食事の準備に繋がるのかと考えると、やはり老人の暮らしが、自分の生まれ育ち、置かれていた境遇よりも恵まれているものように感じられたが、もうその話題には触れないことにした。
 ここで言いたいことを我慢できるようになったということは、ひとつ成長した証なのかもしれないとナギは自問したが、答えは出なかった。
 充分に噛み尽くして満足したところで魚を飲み込むと、ごくりという喉の音が、いま自分が立たされている状況に区切りを付けた。口の中に寂しさが戻り、他にすることが何もないという現実を改めて突きつける。
 ナギはそれを振り払うように、満足を表現しようと大きく伸びをしたが、次いで無意識の内に口から出た言葉は、どうにも自虐的なものだった。
「あーあ、一体、何やってるんだろう」
 耳に届いたはずだが、老人からの返事はない。
 老人は、最初の一匹目をナギにあげたため、自分のための釣りを一から始めているところだった。
 何となくかまってほしくなり、ナギは大きめな声で続けた。
「くだらないな、何もかも」
 ふと老人が口を開いた。それがナギの思いに応えるものなのかは分からない。
「ナギくん、きみは自分の価値がお金だったと言ったが、そもそもそのお金はどうやって手に入れたんだい?」
「え、働いたんだよ」
 ナギの平然とした回答に老人は驚いた。
「ほお。どれほどの額がわからんが、何人もの仲間たちが魅力に思うほどだったんだろう? 本当に自分で働いたのかい?」
 老人は率直に聞いた。
「ははは、失礼だな、おじいさん。本当だよ、ペンキ塗りの仕事を何年もして、僕が稼いだんだ。お金のことはよく分からないんだけど、使わずに貯めていたから、かなり沢山あったみたいだね」
 ナギが無邪気に話すと、老人はそれが真実であると受け取った。老人は微笑んだ。
「そうかそうか。ナギくん、お金を盗まれてしまったことはつらいだろうが、やはりそのお金は、紛れもない、きみの魅力だったんだ」
「おじいさんまでそんなことを」
 ナギは眉根を寄せた。
「腕力だとかね、自分自身のことじゃなくて、持ってる金が魅力だって言われると、そりゃ悔しいかもしれんがね。でもそれが、今の時点でのきみの事実だ。まだ若いんだからいいんだよそれで。ナギくん、いま幾つだい?」
 ナギは胡散臭そうに老人を見て返した。
「十七歳」
「はっは。まだまだ赤ん坊だな」
 ナギはやれやれと首を振った。
「赤ん坊じゃない。十七歳だ」
「分かっとるよ。わたしから見ればそれくらい若いってことだ。まだ何でもできる。何でもやり直せる」
 老人は大げさだ。ナギは首をすくめた。
「きみ、この海をとてもきれいだと言ったね。旅をして初めて見たって」
 ナギは海に目をやった。大きな大きな水溜りの上、あちらこちらで無数の小さな光が列をなしている。
 うん、きれいだ。ナギは頷いた。
「色々つらい思いをしてるだろうが、この海を見ることができた経験は、とても良いものだったろう?」
 ナギは無言で頷く。
「この海を見ることができたのは、何のおかげだい?」
 老人が問いかける。
 回答する。この海を見ることができたのは、旅をしてきたおかげだ。
 では、ここまで旅できたのは、何のおかげだ? 今度は自問する。
 回答する。ここまで旅できたのは、仲間のおかげだ。それと……。
 ナギは波打ち際を見た。ヴィンテージ・セロ。そうだ、仲間と、靴の支えのおかげだ。
 ナギは考える。
 仲間に連れてきてもらえたのは、金のおかげだ。靴を買えたのも、金のおかげだ。
 金を手に入れられたのは、がんばって働いた自分のおかげと、自分を十七年間も町に閉じ込めていた、憎き権力者、
「……お金を払ってくれた、ベルベルルのおかげだ」
 口にすると、どこか虚ろだったナギの目に、力が戻った。
 それは老人にとって、ひょんな答えだったが、ナギの答えが幾つかの段階を踏んで出たものであろうことを悟って笑った。
「ほっほ」
「おじいさん、僕、行くよ」
 若者の決意、老人は笑うのみだった。
「ありがとう」
 ナギは心から礼を言った。
「それと、ごちそうさま」
 いいよ、行きなさい。老人は手を振った。
 ナギは足早にその場を後にすると、脱ぎ捨てられていた靴の下へ来た。
 靴を手にまじまじと眺めると、かかとが擦り減っていることに気付いた。相棒は、傷だらけですっかり汚れてしまっていた。
 愛おしそうに表面の砂を払ってやると、ナギは優しく声をかけた。
「今までありがとうな」
 砂に尻をつけ、右足を通し、しっかりと紐を結んだ。
「これからも、頼むぞ」
 テント、そして入り江の方へとさっと視線をやる。
 誰もいない。もう片方に左足を通し、紐をぎゅっと結ぶ。
 老人の方を振り返る。老人は初めて見た時と同じ背中で、椅子に腰掛けていた。
 ナギは小さく微笑むと、尻の砂を払いながら立ち上がり、目を閉じて大きく深呼吸した。
 潮風をたっぷりと飲み込み、体の隅々にまで染み渡らせるイメージを描く。
 満足したところでゆっくりと目を開き、森をキッと見据えた。
「行くぞ、ヴィンテージ・セロ」
 言葉にすることで、自身を鼓舞した。
「町へ帰ろう」
 海鳥の群れが甲高い鳴き声をあげながら、はじまりの塔の方へと飛んでいった。
 砂に足を取られながらも、ナギはゆっくりと駆け出した。

 

 タダンダの町は、男、女、老人、子供が溢れ、目的がある者、目的がない者が入り乱れ、いつもどおり騒然としていた。目的があるふりをして、街中を忙しなく歩き回る者も大勢いた。
 目的があるふりをしている者同士は、何度も街角で出くわす内に口論となり、殴り合いの喧嘩に発展することが多々あった。
 そんな喧嘩を咎める者は少なく、逆に煽り立てる血の気の多い者の方が沢山いた。その輪の後ろでは、まったく無関心に軒先で座り込んでいる者、倒れ込んでいる者らがいた。倒れこんでいる者はほとんどが十代の若者だった。いま若者の間では、体の半分を日陰に、もう半分を陽にさらし、左右の肌の色の違いを作って楽しむ遊びが流行していた。
 町外れの大きな一本木の袂では、眠ってしまうともう二度と起きることがないかもしれないという死への恐怖から、瞬きを一切せぬまま木陰で何年も立ち尽くしている名物老人がいた。
 その横で、同じように瞬きをしないでどれだけ耐えられるかという遊びに興じる子どもたちが沢山いた。限界を超えて目から血を流す子どもも沢山いた。
 その情景を美術家は尊び、木と老人と子供と血の涙という主題の写生会をよく開催した。参加希望者は後を絶たず、毎回盛況だった。
 混沌の町タダンダのは、今日も賑わっていた。
 茶屋で盗みの騒動が起きた。
 男が、受付のテーブルに並べられたパンを突然鷲掴みにすると、金を払う気はないぜと言って立ち去ったのだ。
 その様子を見ていた従業員の若い女が、その行為にいたく興奮し、働かなくともこうして食い物を手に入れれば良いのかと胸打たれ、同じようにパンを鷲掴みにすると、涙を流しながら食べ始めた。
 盗みを働いた男の後ろに並んでいた心優しき男は、従業員がいなくなった茶屋を憂い、今からわたしがこの茶屋を運営して参りましょうと、満席の店内へと高らかに宣言した。
 店内の客たちは感動し、心優しき男へ賛辞を送ると共に温かい拍手を惜しまなかった。
 拍手が鳴り止まない中、席を立つ者がいた。
 クルブだった。
 クルブは空けたカップを手に男へ歩み寄り、ご馳走様でしたと言って手渡した。すると、そのお茶を入れたのはアタシだと、いまや盗人となった元従業員の女が叫んで非難した。
「そこまではまだ、アタシの功績だからね」女が主張すると、店内からどっと笑い声が起きた。
 クルブは意に介さず、心優しき男を激励し、店を出た。
 クルブは茶屋街を抜けると、仕事場である厩舎へと向かった。
 厩舎へ着くと、雇用主のバトンがいた。馬の毛を櫛で手入れしているところだった。
「クルブ、お疲れさん」
 クルブに気づいてバトンが声をかけると、クルブは黙って頭を下げた。
「お客さん、ちゃんと行ったか?」
 クルブは、ええ、と小さく返事した。
 馬を一頭貸し出したところだった。客が馬を操れるかどうか、貸出人は町の出入り口まで見届けることになっている。クルブは、今回の客が問題なく馬に乗れることを見届け、帰りに茶屋で一服してきたところだった。
「よし、じゃあ今日はもう終いだ」
 バトンが言うと、クルブは黙って頭を下げた。バトンは馬の頭を軽く撫でた。
「そういや、もうそろそろなんだろ?」
 クルブは、ええ、と小さく返事した。
「相変わらずよく分からねえ奴だな。ま、これからもがんばって働いてくれや。うちの頼みはそれ以上でも、それ以下でもねえ」
 聞いているのか、いないのか。クルブは厩舎の中を横切って奥の扉を開けた。事務所へ一歩入ると、入り口付近にかけてあったマントを取り出し、さっと羽織った。
「帰ります」
「おお、お疲れさん」
 バトンが言うと、クルブは一礼して厩舎を後にした。
「よし、じゃあこっちも終わりだ」
 馬の手入れを仕上げると、バトンはバケツを持ち上げた。
「また明日な」
 馬に手を振り、厩舎を出たところで、バトンは人影に気づいた。逆光で一瞬誰だか分からなかったが、どうやらクルブのようだった。
「クルブ? どうした、まだいたのか」
 声をかけたが、返事がなかった。相変わらず無愛想な野郎だ。もう少し歩み寄ったところで、それがクルブではないことに気づいた。
「ん? 誰だ」
 それは若者だった。
「すみません、ナギといいます」
 若者が口を開く。姿も声も、クルブに似た子だった。
「あの、父は、クルブはいますか」
 バトンは目を見張った。ナギと名乗るその少年は、この町のそこいらで寝そべり返っている若者よりもずっと汚くぼろぼろで、しかし、とても精悍だった。

(つづく)

 

 

 


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あべこべのセロ

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