★アマチュアファンタジー小説家応援企画★
むかし人生で初めて書いたファンタジー小説を公開します! プロットって何?って知識レベルで思いつくまま書きなぐった黒歴史。恥さらし上等、アップするにあたり修正なし。
名もなきファンタジー小説(最終)
扉を開けると、薄暗く、懐かしい殺風景が目に飛び込んできた。しかし鼻をつくそのにおいは、かつて暮らしていた自宅のそれとはどこか違っていた。それは他人のにおいだった。
見た目とにおいとの組み合わせが記憶のそれと異なるため混乱が生じ、ナギは部屋に入るのを躊躇われた。そんなナギの背中を、ネルコの手が容赦なく突く。
「何、遠慮してんのよ」
促されて一歩踏み入ると、紛れもなくそこは、自宅であった。
部屋の奥が目に映る。
ナギのベッドの傍らで、母のマチャが跪いていた。誰か人を看病しているようで、それがベルベルルであることを、ナギは話の流れから悟った。
ナギは声をかけた。
「母さん」
狭く、静かな部屋。ナギの呟くような小さな声を、相手はすぐに聞き取った。
「……ナギ」
マチャは目を疑った。
「ナギ? ナギなの? あなた、一体……」
「ただいま」
ネルコは笑顔を浮かべて肩をすくめると、扉を後ろ手に閉めた。
マチャはナギの頬を叩き、罵り、ネルコへ謝罪を命じ、大声で泣き、無事と再会を喜ぶと、身体から身体へと愛情を染み渡らせるように息子を強く抱き締めた。
淡々とマイペースな母親が、ここまで感情を顕にするとは予想だにしなかった。優しいようでいて、実はこちらのことを心から気にかけてはくれないと思っていた母。
しかし本当は、肉親のことを心から気にかけていなかったのは自分の方だったのかもしれない。
ナギは自分の無茶を改めて悔いた。
ネルコの反応然り、置いていった者より、唐突に置いていかれた者の方が、つらく寂しい思いをしていたのだということがよく分かった。
しばらく母に抱かれている内、この様をネルコにずっと見られているのだと思うとナギは少し気恥ずかしくなったが、ネルコはそんな母子をからかうような目を向けることなく、ただ静かに見守っていた。
マチャはしばらくして気持ちが落ち着くと、ナギに話した。
「今ね、お二人には、うちで暮らしてもらってるの」
当たり前のように話す母の背中越し、ベッドに横たわるベルベルルの存在が、ナギには異質に映った。
「ネルコに、聞いたよ」
マチャはネルコを見た。ネルコは頷く。
「そう。じゃ、これも聞いたかしら? 今はね、ネルコちゃんが、このユカの町の町長になったのよ」
「ええっ」
ナギは驚いて振り返った。
どうだと言わんばかり、ネルコは片方の眉を上げた。
「彼がね、もう、くたびれてしまって……」
マチャはベッドに横たわるベルベルルを、毛布の上から申し訳なさそうに撫でた。
ふと、ベルベルルが口を開いた。
「ナギ」
「あっすみません、起こしてしまいましたか」
撫でてしまったことが原因かと、マチャが大げさに手を振り上げた。
ベルベルルは息苦しそうに笑った。
「あれだけ大声で騒がれたら眠れんよ」
どうやら早い段階から起きていたようだった。
「すみません」
マチャは申し訳ないと頭を下げた。ネルコが後ろから笑った。
屈託のない会話。話しやすい雰囲気がつくられているようではあったが、どう、この輪に加われば良いのか。ナギはまごついていた。
そんな息子を察し、取り繕うようにマチャが促す。
「ナギ。お目覚めよ。まずベルベルルさんに謝りなさい」
ベルベルルさん。町長が代替わりしていることを再確認させられたナギは、ネルコを見た。
「大丈夫よ。病気ってわけじゃない。ちゃんとしゃべれるから」
ネルコも促した。
分かった。意を決したように、ナギはベッドの傍へ寄った。
十七年間使っていた自分のベッドに、自分を町へ閉じ込めていた憎むべき町長が、病気ではないと言われてもにわかに信じ難い程に憔悴しきった様子で横たわっている。
何とも奇妙な光景だった。
二人の再会、口火を切ったのはベルベルルだった。
「戻ってきたんだな」
まず謝罪しようと思っていたところ、タイミングを損ねてしまった。
「あ、あの」
「詫びなどいらんよ。もう充分に反省もしただろう。そういうのが漂っとるよ」
ナギの思いが、体を取り巻く雰囲気として現れているらしかった。
ナギはベルベルルをまじまじと見た。
ベルベルルの頬はこけ、目の下の隈は黒ずんだあの家を想起させた。声も少ししわがれて、小さく弱々しい。
だがその声は不思議と、ナギの耳に、そして心にしっかり届いた。
ナギは思わず正座した。
「ご覧の通りでな。おまえのとこに世話になってる。クルブは働きに出とるからまだしも、マチャさんは毎日窮屈だろうに、何の文句も言わんと、看病までしてくれてな」
「そう、本当に助けてもらってるの」
同じ居候として、ネルコが気持ちを添えた。
「でも、なあ? マチャさん。もう少しなんだろう? 新居の方は」
ベルベルルは少し首を上げ、マチャに尋ねた。
「新居?」
思いもよらぬ言葉に、ナギは上擦った声をあげた。マチャは微笑んで返す。
「ええ」
「新居って、母さん?」
「こんな狭いところでね、何も町長さんたちとずっと同居しようってわけじゃないのよ。お父さんね、タダンダに家を建ててるの。それがもう少しで完成するのよ」
「何だって! タダンダに?」
ナギはびっくりした。
「え、もう、何がなんだか」
ナギは狼狽した。
話すのが苦しそうなベルベルルに代わり、ネルコが説明した。
「クルブさんはね、出入りの禁のせいで息苦しい思いをしているナギ、あなたのことを思って、正々堂々と、二十五歳を待たずして町の外へ出してやろうって頑張ってたみたいなの。それが、タダンダの家」
「タダンダに」
「そう。クルブさん、パパの知り合いの、バトンさんのところで働いているでしょう。どうやら向こうで、こつこつと家を建てていたようなの」
ナギは疑問に思った。
「こつこつとって、そうは言っても、そんな簡単にできることじゃ」
「もちろん簡単なんかじゃないわ」
マチャが言う。
「一人でうまく建てられるのかどうか分からない。それに、ご本人を前にして言うのも何だけど、大体そんなことをしていることを町長さんに知られでもしたら、果たして許してもらえるのかどうかも分からない」
マチャの話を、ベルベルルは申し訳なさそうに聞き入る。
「だからね、お父さん、ずっと言わなかったのよ。元々ああいう人だし、ね」
寡黙で、自分を出すのが苦手な人、ということだ。
ナギが問う。
「母さん、知ってたの?」
いいえ。マチャは首を振った。
「町長さんたちをうちに引き取ってはどうだって、お父さんが提案したの。びっくりしたわ。何でって、どうやってって尋ねた。その時に、母さんも初めて教えてもらったの」
本当に水臭いんだから。マチャは寂しげに、そしてどこか誇らしげに微笑んだ。
「そう、そんなことがあったんだね」
ナギは一つ一つ、みんなの思い、そして出来事に理解を示そうと努めた。
「ナギ、何だか、悪くて」
ネルコが眉根を下げる。
「勝手に、あなたの家に住むことになって」
町長の謝罪に、マチャが取り繕う。
「とんでもない! ご紹介いただいた隣町の仕事のおかげで、あの人は働けて、こうして食べていけてるんですもの。そういう意味で、この家は、元々ベルベルルさんたち、町長さんたちのおかげなんですから」
みんながみんな、申し訳なさそうな笑顔を浮かべあった。
全ては、誰かの、何かのおかげ……。
ナギの脳裏にこれまでの旅路がよぎった。
タダンダの刺激。
高地から見下ろした、緑と様々な色が交錯する世界。
欲望にまい進する者たち。
生きる意味を失った女。死を恐れる男。
視界を覆い尽くした、空と海の青。
「ナギ」
心ここにあらずといった体のナギへ、ベルベルルが優しく声をかけた。
ナギは我に返った。
「ナギ」
「……」
憎き相手だったが、今となっては恐れ多い気がして、どんな風に接すればよいのかナギには分からなかった。
「いい靴だな」
ヴィンテージ・セロ。
「地べたに座られちゃ、よく見えん。そこの椅子に座ってくれんか?」
ベルベルルは、靴がよく見えるようにと頼んだ。
「これ、あそこの靴屋で買ったんです」
買い物を密告した靴屋。ネルコを見ると、ニヤニヤと笑っている。ナギは気を取り直して説明に入る。
「これ、最高級の素材を使ってて、あの靴屋さんが一生懸命作ったんだって。有名な、年代物のお酒になぞらえて……」
「はっは。知ってるよ。ネルコや」
ベルベルルは笑うと、ネルコに何かを指示したようだった。
ネルコはマチャに断り、棚の下を開けると、茶色い瓶を取り出した。
「はい、どうぞ」
そう言って、ベッドの上方に添えられた小さな丸テーブルの上に、瓶を置いた。
「マチャさん、ナギはもう、十八になったかね」
ベルベルルが問うと、マチャは頷いた。
そういえば。ナギはそんなことは忘れてしまっていた。旅をしている間に、一つ年を重ねている。
確認を済ませると、ベルベルルは満足げに頷いた。
「じゃあもう、酒が飲めるな」
「私はもう少しだけどね」
ネルコが口をとがらせると、マチャとベルベルルが笑った。
「さて、ナギよ。これがヴィンテージ・セロ。さっきお前が言わんとした酒だ」
「えっ」
ナギは丸テーブルの上を凝視した。
ただの酒瓶だ。だが、どこか悠々としていて、とても雰囲気があった。
「これが」
そのぽっこりとした瓶底から飲み口にかけて柔らかくシェイプされていくフォルムは、まるで男の無骨さと女の繊細さとを併せ持っているようだった。
酒瓶の美しさに魅入るナギに、ベルベルルは真実を告げた。
「この瓶になぞらえてな、私がその靴に命名したんだよ」
ベルベルルが、ナギの足元を目で指した。
「ちなみにお前のは、レプリカなんだ」
「レプ……え、ええっ?」
ナギは靴を見た。
「私のが第一号なんだ」
恐らくそういう話になるだろうと、ネルコは先読みして一つの木箱を持ってきた。
蓋を開けて取り出したそれに、ナギは驚きの声をあげた。
「ヴィンテージ・セロ」
ナギは目を丸くして、忙しなく、ネルコが取り出したそれと、自分の足元とを見比べる。
「一体どういうこと」
ベルベルルは自慢げに、そして悲しげに言った。
「これはな、私が旅に出るときに、靴屋に作らせたものなんだ。この名酒、ヴィンテージ・セロになぞらえてな。私のが第一号」
そう言って、ネルコの手元を指差す。
ネルコはそれを丸テーブルの上に置き、酒瓶と隣り合わせにした。
「そしてナギ、お前の履いてるのが第二号。素材が余ったことと、靴屋にとってこの仕事がとても良いものだったのだろう、記念にということで、靴屋が個人的な思いで、第二号を作ったんだ」
そう言って、次はナギの足元を指差した。
ベルベルルはやがて目を細めると、それきり黙ってしまった。
ナギは何と言っていいものか分からず、同じように黙るほかなかった。
しばらくすると、ベルベルルが口を開いた。
「ナギ」
それはとても小さく、上擦った声だった。マチャとネルコがどちらからともなく立ち上がる。そして互いに背中に手を添えると、静かに部屋を後にした。
ナギは首を傾げ、ベルベルルの言葉を待った。
ベルベルルは小さく笑った。
「よく履き込んだな」
ナギは足元に目を落とした。
「私の旅は、ままならなかったから、新品同様、こんな綺麗なままだが……」
丸テーブルの上の靴が、並ぶ酒瓶に劣らぬ輝きを見せる。
「同じ靴だというのに、一体どんな旅を経ると、そんなボロボロになるのやら」
ベルベルルはまたも目を細めた。ピカピカの自分の靴よりも、ナギのボロボロの靴の方が眩しいかのように。
ナギの胸に、ベルベルルの思いがすっと流れ込む。ナギはベルベルルの気持ちを、痛い程に強く感じ取った。
ナギは椅子をベッドの近くに寄せると、ベルベルルの両手を握り締めた。
「ごめんなさい」
ベルベルルは優しく微笑んだ。
「いいんだ。ゼフと、一緒だったんだろう? あの男は、私が憧れた旅人なんだ」
「本当に、ごめんなさい」
ナギは掴んだその手をぎゅっと握り締めた。
あちらの部屋で、扉が閉まる音がする。
「本当に……」
「ナギ」
ベルベルルは、ナギの手を強く握り返した。
「この靴がそんなになるまでの旅の話、よかったら、聞かせてくれないか」
はい。ナギは返事したつもりだったが、もはや声にならなかった。
ナギは、ベルベルルの胸へ顔を埋めた。
その晩は、四人で小さな食卓を囲んだ。
ベルベルルはベッドの上だったが、いつもより調子が良いと上体を起こし、軽く食べ物を口にした。
そして再会の記念にと、ヴィンテージ・セロを開けることにした。マチャがグラスを四つ用意し、それぞれに注いだ。
形も大きさもバラバラのグラスをみんなで重ね合うと、乾いた甲高い音が部屋の中に小さく響いた。
ネルコは十八になっていないからと遠慮していたが、年齢制限は、実はタダンダの商売上の規制にならってユカの町で慣習づけられたものであり、子どもが飲むのも少しであれば問題はないのだとベルベルルが説明した。
商売上の問題というのは単純明快、若者は酔うと自制が利かずすぐに暴れ出すので、店の側からすると困って仕方がないということだ。
ピルロの一味のような連中のことだろうとイメージしながら、ナギはグラスに口をつけた。しかし折角の名酒を口にしたものの、その良さを理解するには至らなかった。
それは甘みという土台の上に、少しばかりの酸味と苦味と辛味が互いを相容れないままに渦巻いて存在しているような混沌とした味で、ナギの幼い舌には到底受け入れられるものではなかった。甘みを美味いと感じなかったのは初めての経験で、ナギは口の中に残る名酒の風味を消すべく大量の水を飲んで和らげると、次いで食べ物をぱんぱんに含んで口直しをした。
そんな幼い息子をよそに、マチャは目を輝かせながら美酒に酔いしれ、一方ベルベルルは、ほんのり舐めると目を閉じて、安らかな表情を浮かべて何やら物思いに耽り始めたようだった。
ナギの隣ではネルコが、ナギ同様に酒を受け付けられなかったようで、くしゃくしゃに皺を寄せて老人のような顔で唸り声をあげていた。
小さな晩餐は遅くまで続いた。
ナギは色々な話を聞いた。
ベルベルルは結婚していない。つまりネルコはタダンダから来た養子だとされていたが、実はれっきとしたベルベルルの子どもだということ。タダンダから来ていた奉公人との間にできた子で、双方の家柄や関係性の問題か、結婚はしなかったらしい。ベルベルルはこの点については明言を避けた。
ナギとマチャは驚きを隠せず、時折目を丸くして互いの顔を見合わせたが、ネルコ自身は幼いころからこの事実を知らされていたようで、ベルベルルのこの告白に特に衝き動かされるものはない様子で、おとなしく話に聞き入っていた。
いずれにせよ、ネルコが町長の座に就いたことに繋がる、納得のいく話だった。
話題を引き継いだネルコは、ネルコらしく淡々と、そして朗らかに話した。
ネルコは、祖父そして父が公布した(入の禁)と(出の禁)を解除、町の外へ出る際は二人以上、できればその片方は大人であることを推奨し、細心の注意を払うことという注意喚起に留め、人々の町の出入りを自由にした。
元々、この小さな町で若者に限定された束縛だ。それが解かれたからといって、町の何が変わるでもなかった。「そういう常識」の中で生まれ育ってきた若者たちにとってそもそも町の外に用のある者はなく、およそ年配の者たちが少し胸のつかえが取れる思いをするに留まった。
二十年に渡る、町長の独り相撲。茶番劇。町の者はそう揶揄したかもしれなかった。
その件では、ベルベルルは眉間に皺を寄せては、苦しそうにヴィンテージ・セロを喉に流し込んだ。
ネルコの計らいで、兵隊のアンとオンの二人はその経験を考慮し、町の警護という名目で引き続き同じ仕事に就かせることにしたらしい。
ナギは兵隊のどちらがアンでオンなのかよく分からなかったが、先ほど坂下で出会った際、一人がそわそわした様子だったことを思い出したが、さして大した問題でもあるまいと口を挟まずにいた。
ネルコは今では、かつて住んでいた家を毎日頻繁に訪れては様子を見ているということだった。ただ、様子を見るといっても何をするわけでもないらしい。恐らく、ベルベルルの負の思いが家を朽ちさせたというのなら、今度は自分の思いで家を再興できぬものかと考えているのかもしれない。ナギはそう解釈した。
また、悲しい知らせを受けた。
明日は、パウムに会いに行こうと思うとナギが口にすると、皆が首を振った。
「パウムはね、もういないの」
仕事に来なくなってから数日経ったある日、ネルコがパウムの家を訪ねてみると、そこにパウムの姿はなかった。
ネルコはすぐさまアンとオンを問い質したが、ナギの一件以来、町の出入りについては特に注意を払って見ていたつもりだが、特段誰かが町を抜け出す様子はなかったということだった。
ナギは思う。
そもそも過去、パウムが兄ピルロの脱走を手伝ったという告白は、ナギにしかなされていなかった。脱走に協力したとあってはパウムにもどんな処罰が下されるか分かったものではない。
「誰にも言わないでくれよな」
ナギは秘密を守った。
だが肝心の脱出方法については、パウムは話してはくれなかった。
「現場で、誰かの協力を必要とするわけじゃないんだ。危険だけど一人で充分。その方法を提供してやったという意味で、僕が協力したって表現したまでさ」
中途半端な秘密の告白、そして共有・強要にナギは少し腹立ち、得意気な顔でペンキを塗り続けるパウムの尻にこっそりと刷毛を振ってペンキをつけてやったことを思い出した。
恐らくパウムは、ピルロを逃がしたその方法を以って、自らも脱出したのではあるまいか。
危険を冒して、町に戻れない覚悟を持って逃げ出したのか。もう少し待てば、ネルコが町長の座に就いて禁は解除され、自由が手に入ったというのに。
いや、パウムがいなくなることによって負の連鎖が起こり、ネルコが町長に就いたのだ。つまりあのまま待てど暮らせど、パウムに自由はなかった。やはり脱出は必然だった。
だが、その必然を起こしてしまったのは、自分の不用意な行いが原因なのだ……。
「ナギ、どうしたの」
ナギが何やら考え込んでいる様子に気づき、ネルコが声をかけた。
「いや、何でもない」
自分が引き金で、取り返しのつかない色々な問題を起こしてしまった。
ナギはおもむろに酒瓶を手にした。
ナギは靴と同じ形の酒瓶を空けることで、旅の一切を飲み込んでやりたいという衝動にかられた。
乱暴に口をつけると、目をギュッと瞑り、顎を一気に上げた。
「ナギっ」
誰かが咎めた。しかしナギはやめなかった。ナギの両耳は詰まってしまったように声が遠く感じられ、酒の流れゆく喉は焼け、全身の感覚は、あっという間に遠のいていった。
ナギーっ
ナギはそのまま、意識を失った。
ユカの町は、連日の好天だった。
この分だと、しばらく先まで雲ひとつない陽気に晒されていることだろう。きっとタダンダも、いつもどおりの活気に満ちているに違いない。
ナギとネルコは、坂の上に立っていた。
「気をつけてね」
ネルコは風に靡く髪を押さえた。
「うん」
ナギは振り返らなかった。
坂下には、今日も兵隊のアンとオンが立っている。二人とも向こうを向いていて、こちらには気づいていない。
坂の右手、赤茶けた巨大な岩山は、陽に照らされ黄みを増して聳え立っている。直角に等しい岩肌は滑らかだがその分手足がかかりづらく、とても上り下りできるものではない。
麓の町が、人の往来を禁じようと禁じまいとどこ吹く風で、そんな人間の論理などよそに、物理的に世界を二分する、ユカと外界とを隔てる圧倒的な存在として今日も君臨していた。
一方、坂の左手には奈落の底が大きな口を開いていた。落ちたらひとたまりもない。いや、終わりなどない永遠の落下が待っているのではないかと思わせられる程の、漆黒の深淵だった。
しかし、見えない分恐ろしくはあるが、まだ手足がかかりそうなのはこちらの方だった。パウムは何らかの方法でここを辿って、坂の向こうへ渡ったのかもしれない。
ナギは考えながら、ゆっくりと屈伸した。
「クルブさんに、よろしくね」
「ああ」
じっくりと、足の筋を伸ばす。
ナギはまず、昨日会いそびれた父クルブに会いに行くことにした。
勝手な振る舞いについて詫びなければならないし、隠れて新築しているという家も見てみたい。そして何よりも今、素直な気持ちとして、父に会いたいと思っていた。
物言わぬ父。何を考えているのか分からない父。何日も家を空けて、たまに帰ってきて少し休んでは、また荷馬車に揺られて働きに出る父。
その姿は、本人のおとなしい性格も手伝って、主に仕える奴隷の姿に他ならず、息子としてこの上なく情けなく感じられ、恥ずかしい思いを抱いて暮らしてきたものだった。
そんな父のことをナギは今、初めて申し訳なく、誇らしく、そして愛おしく感じていた。
父に会わなければ。
父に会いたい。
旅疲れもある上、初めての酒で酔いつぶれたというのに、気持ちが落ち着いていないためか、ナギは誰よりも早くに目が覚めた。
水を一杯口にすると、父に会いに行きたいと申し出た。母のマチャは一瞬驚いたが、やがて嬉しそうな様子で賛同した。
「その後は、どうするんだ」
ベルベルルが問うた。
「好きにしていいんだぞ。お前はもう、自由なんだ」
同調するように、ネルコが頷く。
帰ってきて、反省して、また閉じこもる必要なんてない。みんながそう、背中を押してくれているようだった。
ナギは感謝した。
「パウムに、会いたいな。パウムを探したい。それと」
ベルベルルが頷く。
「……ゼフにも、会いたい。色々あったけど、やっぱり楽しかったんだ、彼と旅するのが。ゼフの背中越しに、いろんな世界を見た。ゼフと別れたあの海に戻ってみたい。あの青い世界をもう一度見たいし、今度は折角だから、はじまりの塔にも行ってみようかな。そしたら、その後は」
「行きなよ」
ネルコがナギの背中を叩いた。
「うん。今度は、海を渡ってみたい。そしてまた、ゼフに会いたい」
ナギが言うと、ベルベルルはベッドの上で両腕を広げ、物々しげに言った。
「ザ・ウォール」
何それ、ネルコが振り向く。
「海の果てにな、それはそれは、恐ろしく巨大な壁があるらしい」
「嘘でしょ」
ネルコが笑う。
「本当だ。いや、嘘かもしれんが。ザ・ウォールはな、この町を取り囲む岩山など比べ物にならんぐらい高く、果てしなく巨大な壁だという。と、そこのクルブの本に書いてあった」
ネルコとマチャは苦笑した。
「ナギ、たまには帰ってくるといい。ここはお前の故郷だ。そしてここを治める町長ネルコは、お前の最高の友人なんだ。忘れるんじゃないぞ」
ナギはネルコを見た。ご不満? ネルコは首を傾げた。
ナギは笑った。
「うん、分かった。とりあえず父さんに会ってくる。そして、父さんと一緒かどうか分からないけど、一旦帰ってくるよ。そしたら」
ナギは全員を見渡す。
「そしたら、その後は好きにする。勝手なことばかりして申し訳ないけど、また好きにさせてもらう。でも今度は、きちんと、正しく、好きにする」
それでいい。ベルベルルは満足げだった。マチャは何も言わなかった。瞳がうっすらと輝いているようだった。マチャは息子に歩み寄ると、強く短く抱き締め、強く肩を突き放した。
そして満面の笑みを浮かべて行ってらっしゃいと口にすると、台所へと立った。
「ナギ、送るわ」
ネルコが準備した。ナギの勇み足を感じ取り、誰も朝食はとらなかった。
「それ持って行きなさい」
台所の干し肉をもらうと、ナギはポケットに詰め込んだ。
「じゃあ、行ってきます」
ナギは扉を開けると、手を大きく振った。ベッドからベルベルルが右手を小さく上げたのが見えた。
ナギは生家を後にした。
坂上は、緩やかな東の風が吹いていた。強くはないが、良い追い風だ。
「よし、準備オッケー」
ナギは準備運動で充分に体を温めた。
「そんなに気負わなくてもいいんじゃないの」
ネルコが諭す。
「走らなくても、もう兵隊に止められたりはしないわよ」
「いや、ここから、走っていきたいんだ」
坂の向こうを見据えるナギの目は、真っ直ぐだった。
「そう、好きにすれば」
ナギは体を屈め、低い体勢をとった。
少しだけ振り向いてみる。
「ネルコ」
「ん?」
「いろんな人の、いろんな思いの狭間で、君が一番つらい思いをしてきただろうね」
「そうね」
ネルコは即答した。
ナギは前に向き直った。
「帰ってきたらさ」
「ん?」
「……また遊ぼうね」
ネルコは肩をすくめると、淡々と肯定した。
「そうね」
「行くぞ、ヴィンテージ・セロ」
もはや合言葉のようになった台詞を言うが早いか、ナギは駆け出した。
ナギの背中が、坂下へと小さくなっていく。その先には、アンとオンの背中があった。まだナギが走ってくることに気づいていないようだが、あの様子では、足音と気配ですぐにでも気づくことだろう。
すれ違いざま、三人はどうするのだろう。何か一言でも声を掛け合うのだろうか。
ネルコは、想像するそんな男の無邪気さが少し羨ましく思えた。
ネルコは静かに歌を口ずさみ始めた。
何気なくナギと兵隊の遥か先、坂の向こうに視線を向けると、蜃気楼のように揺らめく人影が見えた気がした。
それが何なのか捉えようとネルコは目を細めたが、結局よく分からなかった。
「ま、いいか」
視界の隅で、ナギと兵隊がすれ違った様に見えた。
ネルコは、ぷいと振り返った。
(おわり)
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